日本軍のやった行為を、「侵略」だと言うと、

 

 

「日本は侵略したのではない、悪い事はしていない」と言う人が、たまにいます。

 

 

そんな方に証拠をつきつけると、今度は「アジア解放説」を主張されます。

 

 

「アジア解放」説を強調したい人の動機

 

 

証拠があるから揉み消すのは難しい...と悟るからなのか、「それなら、やった行いの解釈を変えよう」となるのでしょう。

 

 

「犠牲はあったかもしれない。でもそれは相手の為なんだ」...というズラしのテクニックが使われます。

 

 

これは、「ワクチンでこんなに死んでるじゃないか。どこからどう見ても毒だろ、認めろよ」と批判した時に、

 

 

「ワワクチンは薬だから稀に死ぬことはあるかもしれないけど、みんなの命を救うために必要なんだ」と言い張る推しワクと、頭の構造が同じです。

 

 

ズラしの会話は他にもあります。比較してみましょうか。

 

 

「打たなかったら、コロナの被害はもっと酷かった。打ったからこの程度だった」

 

 

「日本が行かなかったら、欧米の植民地支配で現地はもっと悲惨な目にあっていたんだ。日本が行ったから良くなった。」

 

 

ね。そっくりでしょう。詐欺師みたいです。

 

 

他にも、やった事を胡麻化す考え方は多数あります。でも、どんなに解釈を変えて、言い訳をしても、それでも「やった事そのもの」は消えません。

 

 

●大東亜戦争の賛美(太平洋戦争とは言わない)

 

 

●侵略戦争の否認、解放説を唱える

 

 

●東京裁判の否定

 

 

●大日本帝国時代の国家体制や、戦争を批判的に見る歴史認識に対して「自虐史観」とか「東京裁判史観」というレッテルを貼って叩く

 

 

これらは大日本帝国を擁護する考え方です。

 

 

こういった発想の源流を辿っていくと、たいてい「日本会議」に行き着きます。

 

 

反ワク界隈でも、見事にこの思想に染まっている人がいます。

 

 

一番の問題は、「非人道的な行為」を批判していた反ワク仲間が、「日本が戦前・戦中に行った非人道的な行為」に対しては甘い事。

 

 

今の政府や報道は「間違っている」と批判しているのに、今よりずっと酷かった、明治憲法下の政府や報道は「正しかった」と認識してしまう判断基準にも驚かされます。

 

 

そして、その問題を指摘する人に対して、失礼極まりないレッテルを貼って、言論を封じようとする人もいます。

 

 

自分達が反ワク活動において、世間から「陰謀論」「デマ」と言われたら怒るのに、それと同じような事をしているわけです。

 

 

「戦争」は「ワクチン」よりも、被害が分かりやすいです。従って、あれが「悪意がある加害だった事」は分かりやすいので、誤魔化されたりズラされていた解釈を、一つ一つ正していきます。

 

 

「大東亜戦争」の建前と本音

 

 

「太平洋戦争」は、「大東亜戦争」とも呼ばれます。後者はなじみが薄いので、呼び名の経緯についてご紹介します。

 

 

「大東亜戦争」という呼び名がいつ誕生したのかというと、日米開戦とほぼ同じ時期です。

 

 

『日本会議 戦前回帰への情念 著者/山崎雅弘』

 

 

真珠湾攻撃(日米開戦)から二日後の一九四一年一二月一〇日、日本の陸海軍と政府の代表者から成る大本営政府連絡会議は、自分たちが始めた戦争の呼び名について、「支那事変を含め大東亜戦争と呼ぶ」と宣言しました(一二日の閣議で正式に決定)

 

 

(中略)

 

 

この宣言から一ヵ月後の一九四二年一月二一日、当時の東條英機首相は、日本が始めた戦争について、「一〇〇年間にわたって米英の搾取に苦しんできたアジア諸国を解放し、大東亜永遠の平和と、帝国(日本)を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立する」ための義戦(大義に基づく戦い)であると説明しました。

 

 

(164~165p)

 

 

 

「太平洋戦争」ではなく、「大東亜戦争」と呼ぶ人達は、大日本帝国の政府寄りの考えをしています。東條が唱えた「戦争の大義名分」を支持し、あの戦争は「侵略」ではなく「アジア解放」の正しい戦争だったという歴史認識を持っています。

 

 

当然ですが、立場の違いで「侵略」にもなるし、「アジア解放」にもなります。

 

 

どちらの意見も聞く必要がありますが、大事なのは動機結果です。

 

 

アジアの人を幸福にする気があったのかどうか、本当に開放されたのかどうか、それでアジアの人が幸福になったのかどうか...そこを見る事が重要です。

 

 

過去の記事でも説明した通り、日本は自国の人間を粗末に扱う国です。扱いは酷いのに、それを呼び方だけは「英霊」「軍神」と言って褒めたたえるようなところがあるので、言葉に騙されてはいけません。

 

 

建前ではなく本音も見ましょう。

 

 

一九四二年一月二一日、東條英機首相が、日本が始めた戦争を、「アジア諸国の解放」だとか、「大東亜永遠の平和」だとか、「帝国(日本)を核心とする共存共栄」だとか言ったのが建前なら、本音はこちらです。

 

 

『日本会議 戦前回帰への情念 著者/山崎雅弘』

 

また、日本の東南アジアへの侵攻が「資源獲得のための侵略」であった事実は、開戦から三ヶ月後の一九四二年二月一三日に政府の閣議決定で設置された「大東亜建設審議会」の議事録など、当時の日本政府の記録によっても裏付けられています。

 

 

東條首相が総裁を務めたこの会議は、閣僚やその経験者、財界有力者らが「大東亜共栄圏(実質的に日本が支配する東南アジアの一大経済ブロック)」建設の具体的な方策を討議する、いわば有識者会議でしたが、そこで参加者の口から語られたのは、東條が示した「大義名分」とはかけ離れた、生々しい「本音」でした。

 

 

「極端に言いますれば、向こう(占領したアジア植民地)から取ってきた資源は、対価を払わなくてもよろしい。タダで取る。いわゆる出世証明のような方法で、(住民への)支払いは一〇〇年先でもよろしいというふうに私は思うのであります」

 

 

「日本を中心として(占領したアジア植民地から)搾取していかねば続かぬということは、ごもっともな意見ではありますが、そこは公明正大にカムフラージュすべきかと」

 

 

(NHK取材班編集著『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 戦中編』NHK出版、三七~三八ページ)

 

 

(168~169p)

 

 

本音は侵略なので、アジアの為にどんな事したのか紹介します。

 

 

日本にとって都合のいい思想を押し付ける

 

 

太平洋戦争と国民総動員という本で、太平洋戦争に即して「アジア解放」論を検証されていたので紹介します。

 

 

『太平洋戦争と国民総動員 / 著者:小野賢一』

 

「大東亜共栄圏」の構想と具現化

 

 

領土拡大の野望

 

 

戦中、いろいろな場合に「アジア解放」論が登場したが、たいていは「大東亜共栄圏」とむすびついていた。

 

 

「大東亜共栄圏」の語を使って、日本の新たなアジア侵略のくわだてを明瞭にしたのは、松岡洋右である。松岡は四〇年八月、第二次近衛内閣の外相として、この内閣の外交方針を内外にあきらかにした。

 

 

談話で松岡は、天皇主義を世界におしひろげるのが日本の使命だと主張し、日本のかいらい国家・勢力である「満州国」、中国の汪精衛(兆銘)と日本とを結合し、そのうえで「日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立を図る」、これこそが「世界平和に貢献する道程」だ、その実現を妨害する一切の障害を排除するとのべた。

 

 

談話についての報道によれば、松岡は「大東亜共栄圏」の範囲を、朝鮮、中国はもとより、現在のインドシナ、インドネシアまではいるとした(「朝日」四〇年八月二日付夕刊)。

 

 

松岡がそこまでうそぶくのは。三一年いらいの侵略拡大と国策の積み重ねがあったし、第二次近衛内閣の「基本国策要領」(四〇年七月)で「大東亜の新秩序を建設」するとしていたという背景がある。

 

 

こうして「大東亜共栄圏」は、「大東亜の新秩序」を言い換えたもの、東アジア・西太平洋を日本の版図にくみこむ構想で、イギリス、オランダ、フランス、そしてアメリカとの軍事衝突を不可避とするものだった。

 

 

松岡談話の一ヵ月後に日本は、インドシナ北部に侵入し、日独伊同盟条約を締結(四〇年九月)し、「大東亜共栄圏」の実現にむかって行動を開始した。

 

 

この九月、大本営政府連絡会議の文書「日独伊枢軸強化に関する件」の別紙(「秘密とす」)には、日本の「生存圏」の範囲をつぎのように明記していた。

 

 

「生存圏として考慮すへき範囲は日満支を根幹とし旧独領委任統治諸島、仏領印度及同太平洋島嶼、泰国、英領馬来、英領ボルネオ、蘭領東印度、ビルマ、濠州、新西蘭並に印度等」(外務省編纂『日本外交年表並主要文書』下)。

 

 

オーストラリア、ニュージーランド、インドまでふくめていたのである。

 

 

太平洋戦争をはじめてから、日本政府はこの戦争を単に「自存自衛」のためでなく、「大東亜解放」のためだと性格づけ、アジア諸国もそれを「了解すべき」だと説教するようになった(四一年十二月、東郷茂徳外相、衆議院)。

 

 

日本は明治いらい、台湾、朝鮮を植民地とし、そこで残酷な支配をおこない独立運動を弾圧してきたが、それらには口をぬぐい、新たな攻撃地点の多くが欧米の植民地であるため解放をとなえたものである。

 

 

あけて四二年一月、東条英機首相は衆議院で、この戦争目的をもう少しあからさまに、アジアの戦略拠点と重要資源を獲得するもの、米英両国を屈服させるものだとのべた。

 

 

「大東亜戦争指導の要諦は、大東亜に於ける戦略拠点を確保致しますると共に、重要資源地域を我が管制下に収め、以て我が戦力を拡充しつつ、独伊両国と密に協力し、互に呼応して益々積極的作戦を展開し、米英両国を屈服せしむるまで戦ひ抜くことであります」(議事速記録)。

 

 

さらにこの日、東郷外相も、衆議院で「大東亜共栄圏」内の必要地域を「帝国に於て把握すべきは当然であります」と演説した。

 

 

そうした言明は、戦争のなかで具体化されていった。

 

 

先の東条演説は、「大東亜防衛の為め絶対必要なる地域は、帝国自ら之を把握処置し」とのべ、日本軍国主義の解放なるものの真の意味を鮮明にした。そして香港、マレー半島を直接あげ、これを「大東亜防衛の拠点」とする、フィリピンが「大東亜共栄圏建設の一翼として協力」するなら「独立の栄誉」をあたえるなどとのべた(議事速記録)。

 

 

すでに四一年十二月に米領ウェーキ島を占領した日本は、「大日本軍司令部」名で「ウェーキ島は全部大日本帝国の国有たることを宣言す」としていたが、領土についての本格的な決定は四三年五月の御前会議の「大東亜政略指導大綱」である。

 

 

この大綱のなかに、マレー、スマトラ、ボルネオ、セレベスを「帝国領土と決定し重要資源の供給源として極力之が開発並に民心の把握に努む」、またニューギニア等のその他の占領地はこれに準じ「追て定む」とある(『日本外交年表並主要文書』下)。この会議には政府と軍の最高メンバーが出席し、会議後に署名と花押を印したのである。

 

 

そのとき、東条はこういう理由づけをしている。「マライ、スマトラ、ジヤワ、ボルネオ、セレベスは民度低くして独立の能力乏しく且大東亜防衛の為帝国に於て確保するを必要とする要域であります」(『杉山メモ』下)。

 

 

会議にでていた天皇はこの日、極秘のこの決定をただちに裁可した。内大臣の木戸も、それが天皇の決定であることがわかるように、「二時より御前会議あり、大東亜政略指導大綱を御決定あり」と記している(『木戸幸一日記』下)。

 

 

領土とすることが解放でないことは、子どもでもわかることである。

(219~222p)

 

 

 

何様のつもりなんでしょうか。選民思想丸出しで、ジャイアンが唱える理屈と変わりません。

 

 

松岡洋右(ようすけ)は、「満州国」に存在した南満洲鉄道(満鉄)の総裁を務めた人物でもあります。

 

 

満鉄は、鉄道経営にどどまらず、経済や行政も掌握し、最盛期には80余りの関連企業を持っていた巨大組織だったのです。

 

 

松岡洋右が満鉄総裁に就任した時、優秀な人材を集めて「大調査部」を発足しました。この組織は実態がよく分かっていないのですが、簡単に言うと、諜報活動のプロが集まったスパイ組織のような役割をしていたようです。

 

 

戦後、満鉄が解体されたら、多くの人が「電通」に再就職しました。

 

 

戦前と戦後は一見変わったように見えますが、水面下は繋がっていたりします。ちなみに松岡洋右は岸信介と親戚関係だそうです(系図はこちらが参考になります)。

 

 

日本軍による満州国の中核であった満鉄総裁を務めた松岡が、天皇主義を世界に押し広げるのが日本の使命だと主張するのですから、日本が何を考えてアジアに進出していたのかが分かります。

 

 

これって、思想の押し付けですよね。今の日本国憲法下だったら考えられない行為です。

 

 

 

 

略奪

 

 

「アジア解放」論を太平洋戦争に即して見てみると、以下の展開もジャイアニズムが炸裂しています。「解放」という解釈は、どう頑張っても不可能です。

 

 

『太平洋戦争と国民総動員 / 著者:小野賢一』

 

石油、外国企業の獲得

 

 

四一年十一月二十日、連絡会議は「南方占領地行政実施要領」を決定している。開戦より一八日まえのことである。

 

 

「占領地に対しては差し当たり軍政を実施し治安の恢復、重要国防資源の急速獲得及作戦軍の自活確保に資す。占領地域の最終的帰属並に将来に対する処理に関しては別に之を定むるものとする」。これは、南方を植民地・資源供給地とみて、そこに軍事支配を確立する方策である。

 

 

そこで、日本の南進のカギとされた石油についてである。戦時中、「石油の一滴は血の一滴」という宣伝がなされたものだが、日本支配層は開戦まえから石油獲得に執念を燃やしていた。

 

 

四一年夏~秋には、民間の石油会社社員を徴用し特別の部隊を編成して待機させており、開戦と同時に目的地に急行させた(ボルネオのセリア、スマトラのパレンバン)。

 

 

 

そして、破壊・炎上による被害を急速に修復し、多量の石油を獲得した。四四年八月の最高戦争指導会議の報告では、東南アジアからの「石油還送」は四二~四四年度に五五四万キロリットルである(参謀本部所蔵『敗戦の記録』)。

 

 

戦後明らかにされた一つの数字では、原油産額(四二~四五年)の合計は一九五〇万キロリットル、うち日本の取得量が四八五・九万キロリットルで、この差が「現地消失又は減失」となっている(『史料集・南方の軍政』)。

 

 

こうして日本への「還送量」は、三年間で五〇〇万キロリットル前後となる。今日の石油輸入量からみればわずかなものだが、当時としては相当の量を意味した。

 

 

これらの石油の油井と施設はもともと欧米資本のものだったが、占領後はすべて日本軍の管理下にいれた。「敵産」と称してうばいとったのである。

 

 

さらに、四二年八月の南方軍政総監の指示というものがある。

 

 

軍政の目的は、南方諸民族に「適切なる指導を与へ南方資源を確保して帝国の戦力を急速に充実する」こと、「帝国臣民に発展の機会を与へ」「大和民族永遠の発展を図るを基本理念とす」とあからさまである。

 

 

そして「敵産」については、「従来の国際法規に拘泥することなく敵国の国有及公有たりしものは帝国の国有に又私有たりしものと雖も所要に応し帝国に帰属せしむる如く処置し之を適切に運営す」(第八項Ⅰ)と露骨きわまりない。

 

 

それは単に出先の問題ではなく、連絡会議の方針の具体化であった。連絡会議は開戦半年後の四二年六月に「敵産」の処理について議論しているが、そこで東条首相は「現に日本軍の手にて占領地に於て押収せる敵産は数百億〔円〕に上り・・・・・・」(『杉山メモ』下)と発言している。

それらの処理が国際法、とくに日本も批准していたハーグ陸戦法規に違反することを承知のうえでやっているのである。

 

 

公式の発言や決定では表現は多少ひかえめだが、個人的な文書にはつぎのようなのもある。

 

 

インドネシアについて、「没収し得る敵性大規模企業が極めて多い」「全鉱業資源の開発、精錬等、処分は全くわれわれの自由であり、農業部門においても......全産額を支配することが出来る」「鉱業に於ては総べてが敵性利権であつて、我の没収し得るところ」(川西正鑑『大東亜産業立地計画論』)。

 

 

川西はこの本を、東京工業大学教授・経済学博士という肩書きで書いている。

 

 

 

乱暴なのは政府・軍部だけではなかった。開戦とともに南方には多数の日本企業がおしかけ、「敵産」に到達した。三菱電機はジャカルタのマシンファブリック工場に乗り込んだし、東芝はスラバヤのフィリップス工場、日立製作所もスラバヤのフラート鉄工場・ボルミス板金工場、住友電気もバンドンのフィリップス工場、といった具合である(『史料集・南方の軍政』)。

 

 

原料・資源についても同様である。日本の軍と企業は、欧米資本が駆逐されたのを好機に現地でとってかわったのである。

(222~224p)

 

 

すいません。

 

もう、侵略...でよくないですか?

 

 

Wikipedia

 

侵略とは、直接武力をもって他国の領域に侵入したり、攻撃すること、一国が他国に対する要求を貫徹するために武力行使によって事態を変更せしめること、他国に攻め入って土地や財物を奪い取ること、他国の主権を侵害すること、などを意味する。

 

 

まだ、「解放」だと言い張りますか?