これまで、大日本帝国の加害行為に関する記事を、何回かに分けて書いてきました。

 

 

日本国憲法と戦後の日本の良さについて考える

 

 

その少し後、Youtuberの桜井弁護士が、以下のような動画を上げていました。

 

 

 

 

 

南京大虐殺を「捏造」だと言う人がいるので、冷静に考えてもらう為の記事を書かなければいけないと思いました。

 

 

 

戦争の話を追及する理由

 

 

私が何故、「自分が生まれる前の過去の出来事の一つ」の、あったか、なかったか論争について書くのかと言うと、

 

 

「過去の出来事そのもの」に執着しているわけではありません。

 

 

いつも記事を書いている理由と同じで、何も知らない人を騙すなと言いたいから書いているのです。

 

 

そして、不確かな情報を元に、おかしな方向に人を誘導するなとも言いたいわけです。

 

 

戦前・戦中に日本人が行った悪事を「無かった事」にする者が現れた場合、放置すると、世の中はこのような流れになります。

 

 

 

①日本人の悪事を無かった事にする

②日本人は素晴らしかった、だから戦前の社会は素晴らしい(設定にする)

③戦前の日本人が理想、戦前の社会システムが理想、戦前の憲法が理想

④憲法改正した方がいいよね。戦前回帰しよう。

 

 

 

日本人の悪行を無かった事にしようとする人達は、この心理誘導が本当の目的なのです。

 

 

いきなり④を主張すると反発がくるので、①~③の麻酔をかけた状態で、④を主張するわけです。この方法だと、あら不思議。受け入れる人が続出します。

 

 

①~③の部分は、昔の日本のことを褒めて褒めて褒めまくります。すると、何の努力もしなくても、日本人に生まれたというだけで優越感に浸れるので、この説を支持してしまう人が一定数います。

 

 

実態はまるで違うのですが...

 

 

「戦前の日本人=人権意識が低くて、弱者に強いが強者に弱い」、「戦前の社会システム=下級国民に人権なし」、「戦前の憲法=奴隷憲法」...と言っても過言ではありません。

 

 

 

この道を選んだら地獄行きです。

 

 

詳しく知りたい方は、以下の記事を読んで下さい。

 

日本国憲法と戦後の日本の良さについて考える

 

 

 

ワクチンと同じで有害なのですが、綺麗に語ると、良いものだと思って選択してしまう人が出てきます。

 

 

従って、最初の段階で、嘘をつかせないようにする事は非常に意味があります。

 

 

表面的には、戦争の問題のみを扱っているように見えるかもしれませんが、常に「現在の問題である④」の事を一緒に考えているので、単純な「過去の話」でもないのです。

 

 

あと、昔の日本人を正しく伝えることで、現代の日本人のモラルの高さを知って欲しいと思っています。それも目的の一つです。

 

 

最近、昔の日本人は素晴らしかったのに、今の日本人はダメになった...みたいに語る人が多いです。しかし、そんな事はありません。

 

 

現代の日本人の方が人格がまともです。自信持っていいと思います。今の日本人がダメになっただなんて、それこそ自虐です。完璧ではないですが、精神面は昔に比べて確実に成長しています。

 

 

当時は女性の社会進出が進んでいなかったので、歴史の表舞台に出てくるのは、ほどんどが男性です。

 

 

その男性の性質を見ると、現代の男性の方が遥かにいいことが分かります。全体的に、差別意識や弱者に対する態度が、ずいぶんマシになりました。

 

 

昔の男性は体力はあって頼もしく見えるかもしれませんが、その力を弱者を守るために使うのではなく、強い者の横暴に加担する事に使っています。

 

 

昔の人の精神力の強さも、分析すると、上からの理不尽に耐える強さがほとんどです。無駄にイキって力強さをアピールしたり...

 

 

強くても、女性や子どもを殴るようなら、その強さに魅力はありません。

 

 

個人差があるので、昔の人でもまともな人はいます。しかし、全体的な傾向としては、現代の方が人間として成熟しています。自信を持って下さいと言いたいですね。

 

 

南京大虐殺を否定する話は昔からあった。

 

 

「南京大虐殺はなかった説」は、ずいぶん前からあるみたいで、論破されています。

 

 

以下は、遠藤高明氏(所属:歩兵第65連隊第8中隊・第3次補充、階級:少尉)の陣中日記です。※「陣中」とは戦いの中という意味です。

 

 

 

この12月16日の記録を読んで下さい。

 

 

 

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士の陣中日記 / 小野賢二・藤原彰・本多勝一 編 / 大月書店 / 1996年第1印発行(219~220p)』

 

 

 

「給養」とは、主に軍隊や自衛隊において、隊員に衣食住などの生活に必要なものを供給することです。

 

「徴発」は、人が所有する物を強制的に取り立てる行為のことで、以下に詳しく書かれています。

 

徴発 wikipedia

 

特に、軍需物資などを人民などから集める際に見られる行為で、行政的な執行権が伴う場合もある。供出や略奪と異なり、徴発においては対価は支払われる。対価は軍票などによることが多い。

 

 

 

さらに次の日も...

 

 

 

 

この衝撃的な日記の説明がこちら。

 

 

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士の陣中日記 / 小野賢二・藤原彰・本多勝一 編 / 大月書店 / 1996年第1印発行』

 

 

3 虐殺を記録した日記の意義

 

 

ここに集録した日記の、歴史的な意義についても述べておこう。

 

 

南京大虐殺はでっち上げだとか、幻だとする議論は、すでに完全に破産している。

 

 

それにかわって現在あらわれている大虐殺否定論は、不法殺害の数は少数なのだから、中国側や日本の中国追随派の大虐殺説はまちがっているという少数説である。

 

 

その代表は、防衛庁の『戦史叢書・支那事変陸軍作戦(1)』や、偕行社の『南京戦史』である。

 

 

少数説が大虐殺を否定する論拠の一つとしているのが、この山田支隊による捕虜殺害についての事実の認定である。

 

 

『戦史叢書』では、山田支隊が一五日に一万四千余を捕虜にしたが、非戦闘員を釈放して約八千余を収容した。だが、その夜半数が逃亡した。一七日夜に残りの捕虜を対岸に釈放しようとして揚子岸に移動させたところ、捕虜が警戒兵を襲ってきたので発砲した。射殺した捕虜は約1000名で、他は逃亡したとしている。

 

 

『南京戦史』では、資料や証言の確度に問題があるとしながら、実数を推定すると次のようだとして、山田支隊の捕虜は六〇〇〇、そのうち逃亡三〇〇〇、処断三〇〇〇としている。いずれも捕虜の大部分は釈放したかもしくは逃亡したのだとしており、残りは自衛のため発砲したか、処断したのだとしている。

 

 

ここに集められている日記は、こうした釈放説。自衛発砲説を粉砕する資料である。どの日記にも、釈放や捕虜の反乱の記述はまったくない。一万数千ないしはそれ以上の捕虜を、組織的に殺害したという事実を、淡々とそのままに記述しているのである。

 

 

『南京戦史』は、「下級将校や下士官兵の日記には、ややもすれば噂や憶測をそのまま記録する傾向がある」と、信用ならないとしている。

 

 

『戦史叢書』は、高級指揮官や参謀の日記や証言は資料として使っているが、下級将校や下士官兵のものは無視している。

 

 

しかし、高級指揮官や参謀たちの日記のほうが、自己顕示欲にあふれていたり、他人の眼を意識して功名手柄を誇ったり、あるいは弁解が多かったりすることが多い。かえって下級者の日記に、他人の眼を意識しない自分の覚えとして書かれたものが多く、飾らない個人の記録として評価できるものがある。史料批判と校訂をきちんと加えれば、史料として利用できるのである。

 

 

ことにこの場合のように、同じ部隊に属した数多くの人々の日記が集められていることは、史料としての価値が高いのである。一つひとつでは記憶違いや先入観があって、正確さを欠くこともあるが、数を積み重ねることによって相互に検証しあうことができるし、傍証を固めることも加えれば、史料としての価値も高まるのである。

 

 

そしてこれらの日記を総合して判断すれば、山田支隊は十二月一四日に幕府山付近で一万四千余、一五日にもつづいて数千の捕虜を捕らえたこと、軍命令で一六日にその三分の一を江岸で射殺し、一七、一八日と処刑をつづけ、一八、一九の両日には死体片付けのための兵力を出していたことが明らかである。

 

 

捕虜が逃亡したり反乱をおこしたのではなく、「11[遠藤高明]陣中日記」に書かれているように、捕虜を給養することは「兵自身徴発二ヨリ給養シ居ル今日到底不可能事」なので、「適当二処分スベシ」との軍命令があったということであろう。一万四千ないしそれ以上の捕虜の組織的な処刑がおこなわれたことが記録されているのである。

 

 

これは国際法上も人道上も許されない不法行為であることはいうまでもない。その事実を率直に記録している史料として、これらの日記は異議があるものということができよう。

 

 

つぎにこの日記は、兵士の心情の飾らない記録としての意味もある。「1[斎藤次郎]陣中日記」に見るように、幼な子四人と身重の妻を抱え、刈入れ前の田圃を心配している一人の農民が、突然の召集令状で戦場にかりだされていったのである。

 

 

家族を愛し平凡な日常生活を送っていた農民や市民が、いきなり侵略戦争の前線に立たされたとき、どのようにその心情が変わっていくかを、多くの日記はまざまざと物語っている。

 

 

はじめは現地の子どもを見て、故郷の我が子に思いを馳せていた心優しい兵士たちが、徴発と捕虜殺害をくりかえしていく中で、いつのまにか残虐行為に手を下すことに、なんの躊躇も感じなくなっていくのである。善良な市民を虐殺の下手人に仕立て上げる侵略戦争の恐ろしさを、あらためて感じさせるのである。

 

(xvi~xvii)

 

 

他の人の同じ日付も参考になります。

 

以下は、宮本省吾氏(所属:歩兵第65連隊第4中隊・第3次補充、階級:少尉)の陣中日記です。(同本の134p)

 

 

 

 

以下は、目黒福治氏(所属:山砲兵第19連隊第Ⅲ大隊大隊段列・編成、階級:伍長)の陣中日記です。(同本の373p)

 

 

 

 

この時代の人は、文章の書き方が独特で、人によってカタカナを使う人もいれば、今の言葉に近い文章を使う人もいます。

 

 

本人の日記を書き写した本なので、現代の私達からすると、読みにくいところも多いです。

 

 

3人の日記を紹介しましたが、紹介していないだけで、他の人のもまだあります...南京大虐殺を「なかった」と主張する人達は、これらをどうやって否定する気でしょうか。

 

 

元日本兵、同胞の証言です。

 

 

なかった説の根拠で一番多い「現地に住む人から聞いた」

 

 

南京大虐殺の「なかった説」を唱える人は、具体的な説明をしません。

 

 

「知り合いから聞いた」「現地の関係者から教えてもらった」「なかったそうです」...と言うパターンが多いのですが、それだけでは、「証拠」の否定にはなっていません。

 

 

否定する場合、どの資料の、どの部分が、どういう理由で間違っているのかを説明できなければ、説得力がありません。

 

 

でも、そういった根拠は出してこないので、不誠実だと思います。

 

 

この件は被害者がいるので、中途半端な根拠で「ない」と言うのは、無駄に関係者を傷付けることになります。被害者だけでなく、勇気を出して証言してくれた元日本兵の両方をです。

 

 

「相手が確実に嘘をついている証拠」を出さずに「捏造」呼ばわりするのは、配慮にかけていると思います。

 

 

そして、少し現実的な話をします。

 

 

現代の日本でも、日本の為にならない事をする日本人がいます。同じ日本人でも、一枚岩ではありません。得になるなら日本人より外国人と手を組む人はいます。人間はそういうもんです。

 

 

これは他の国の人もあてはまります。中国人であっても、日本人と手を組んでいた人は必ずいたはずです。

 

 

日本人側についている人は、日本の悪事の隠蔽に協力する可能性はあります。

 

 

一部と全体

 

 

「知り合いが見た限りではなかった。だから南京大虐殺はなかった」と結論づけるのは、かなり雑な理論です。

 

 

現地にいても、現地の事を知らない人がいるのも事実なので、その場合は、結論としては、「見なかった人、知らない人もいるよ」くらいに留めるのが妥当でしょう。

 

 

 

見なかった人、知らない人がいる。だから全部ない...は、ちょっと無理があります。

 

 

 

ワクチン被害に置き換えて説明してみましょうか。

 

 

私の地元では、私が知る限りでは、ワクチンが原因で亡くなった人はいません。

 

 

突然亡くなる人や、原因不明の体調不良が増えているのは事実です。「たぶんそうだろうな」...というケースはありますが、調査したわけではないので、それも憶測です。

 

 

 

どこかにいるとは思いますが、私の周りでは、ハッキリ「ワクチンが原因で」と、医師や家族が認識しているケースは0です。私の地元では。私が知る限りでは。(ただし、他の市まで範囲を拡大すると何件かあります)

 

 

 

「現地の人から聞いた事」が全てなら、私が住んでいる地元のワクチン死は0なのでしょうか?

 

 

既に大量に報告されている、世界中のワクチン薬害死まで、この世に存在しない事になるのでしょうか?

 

 

違いますよね。

 

 

「私の周りにいなかった。ワクチン死と断定できるケースはなかった」は、一つの証言ではありますが、それがあるからと言って、「厚労省が発表している被害者の数字」や「実際に被害に苦しんでいる人達の事象」を、全否定する力はありません。

 

 

2つの情報が矛盾している場合、何故異なるのかを、検証する必要があります。

 

 

「私の周りにいなかった」という事実があり、「厚労省の発表」という事実があります。

 

 

それと同じ理屈で、「現地の人がないと言っている」は、それだけでは、他の証拠を否定する力までありません。

 

 

私はそういう分析はしません。ワクチンでもそう。

 

 

私は地元のワクチン被害者を知りません。しかし、私が知らないだけで、水面下では沢山いると予想しています。

 

 

他の地域の被害報告は沢山知っているので、地元だけないという事はありえないからです。

 

 

あったか、なかったかという話を、数が間違っているかどうかの話に論点をズラす。

 

 

「なかった」説を唱える人は、虐殺があったか、なかったかを問題にしているのに、数が間違っているという点をピックアップし、そこが間違っている、だから全部なかった...という結論に持って行きます。

 

 

ワクチン問題でも似たような例があります。

 

 

反ワクの中には、超過死亡を全てワクチンで亡くなったと仮定して、こんなに亡くなっているんだ、原爆で亡くなった数より多い...と騒ぐ人がいます。

 

 

私はさすがにそれは盛っていると思います。周囲のワクチン死と思われる人の割合からすると、超過死亡の数を全部ワクチンが原因と決めつけるのは厳しいと思っています。

 

 

接種していなくても亡くなる人はいますから...。

 

 

そう言うわけで、超過死亡数=ワクチン死とする意見は、ワクチン被害者の数を盛っていると思われます。

 

 

じゃあ、だからといって、「ワクチン死者が多い」という話そのものが、全て嘘にはなりません。

 

 

超過死亡の数ほどで無くても、間違いなく、史上最悪の薬害事件であり、これほどの被害を生んだ薬害は過去にないと言い切れます。

 

 

盛った数がオーバーだったとしても、コロナワクチンが酷いことには変わりありません。

 

 

南京大虐殺もそうです。30万が盛った数だったとしても、本当はそれより少なかったとしても、十分虐殺でしょう。

 

 

日本人が他の場所で聖人君子のようで、南京だけ酷いと批判されるなら、それは、日本人を貶める為に悪く言ってるんじゃないのか...と疑ってしまいますが、そうではありません。

 

 

日本軍はこれに限らず、731部隊、アヘン政策などで鬼畜の限りを尽くしています。現場の人間が暴走してやったのではなく、組織的、計画的にやっています。子どものころから選民思想で、自分達は特別だと思っているので、下に見た相手に対しては酷い事をします。日本人同士であってもです。

 

 

大日本帝国の日本人は、現代の日本人とは、性質が違います。総合的に判断すると、こいつらならやりかねんと思っています。

 

 

被害者側が数を盛るのもアウトだし、加害者側が「相手が盛っているから、自分がやったことは全部ない」とするのもアウトです。

 

 

大事なのは、虐殺があったかどうか。

 

レッテル貼り

 

 

何度も言いますが、「虐殺はなかった」と叫んでいる人達は、具体的に、何と何がなかったのか、根拠を出さない人がほとんどで、ただ「なかった」と言うだけです。

 

 

これは「ワクチンで亡くなった人はいない」とか、「反ワクチンは科学的根拠がない」と言っている人達と同じです。反ワクが、証拠を提示しているにも関わらず、中身を検証せずに、このように言い切ります。

 

 

ひたすら「デマだ」というレッテルを貼ろうとします。

 

 

そして、「安全だ」と言い張って、接種は継続します。当然、また被害がでます。

 

 

...「反省がない」とはこういう事です。

 

 

 

戦争という状態のせいにして逃げる

 

 

「なかった」ことにしたい人達は、とにかく、日本人が悪くないようにしようとします。その為、色んな言い訳を述べます。

 

 

「戦争だから悲惨な事があるのは当たり前。どこの国の軍隊もみな同じ」と言う人もいます。証拠を突きつけられて逃げ場がなくなった人の言い分です。

 

 

 

これは「ワクチンなんだから副作用があるのは当たり前、どんな薬でも副作用はある。あれだけたくさんの人が打ったのだから、副反応の数が増えるのは仕方がない」というのと同じ理屈です。

 

 

データを突きつけられて、否定しようがないから、認めた上で「大したことない」と開き直る人の言い分です。

 

 

 

 

戦争中だから仕方ないは

 

 

「戦争中なんだから非人道的な行為は当たり前」...というなら、東京大空襲、広島・長崎の原爆も当たり前になります。

 

 

広島は民間人を狙ったから虐殺だみたいな事を言う人がいますが、それを言うなら中国で日本人がしたことも虐殺じゃないんですか?

 

 

自分達の被害は主張して、相手の被害は知らんぷり...これはフェアじゃないです。選民思想が今も残っている証拠です。

 

 

当たり前だとして被害を無視するなら、両方の被害を無視しないと道理が通りません。

 

 

 

原爆投下はやむをえなかった...とトップが言うくらいですから、被害者は浮かばれません。

 

 

 

 

「今は戦争中」と言われているので、ワクチン大虐殺も当たり前の扱いになるのです。(昔tweeterで拾った画像、作者不明)

 

 

 

 

 

 

何を守ろうとしているのか

 

 

あった事をなかった事にする人は、何を守りたいんだろう?と思います。

 

 

「お宅の子どもにイジメられた」と言われた時、「うちの子はそんな事しません」と逆ギレするイジメっ子の母親...

 

 

イジメで生徒が亡くなった時に、「うちの学校にはイジメはありません」という学校...

 

 

こういう態度は、本人は体裁を守っているつもりでしょうが、全然守れてないですし、性格の悪さが露呈するだけです。

 

 

戦前・戦中の日本人が行った事をなかったことにする人は、大日本帝国の名誉を守りたいと思ってるのか知りませんが、往生際の悪さと無責任さとホラ吹きで、逆に信用を傷つけています。

 

 

 

批判的思考の欠如

 

 

日本の問題を指摘すると、指摘した人に対して、「この人は日本人ではない」と言う人がいます。あるあるです。

 

 

いやいや、

 

 

身内がおかしいことしてたら、普通に注意するでしょうが。恥ずかしいですからね。

 

 

例えば、嫁は姑には遠慮しますが、実の母親にはズケズケ言うもんです。それと同じ。身内の方が遠慮がない分キツイ事を言うものなのです。ダメ出しもします。

 

 

 

実の親に対してダメ出しをする子どもは、実の子じゃなくなるんでしょうか...違いますよね。

 

 

「日本人を悪く言う=日本人じゃない」...こういう視野が狭い発想は止めましょう。

 

 

これからの時代、日本人はもっと「日本人の悪い部分」を指摘するべきです。傷のなめ合いをして、褒め合って...そういうのが多すぎます。戦前もそうでした。日本人は昔から変わっていません。

 

 

「良い部分」を褒めるのは構いませんが、「悪い部分」を放置したり、褒めるのは問題です。成長を望むなら、日本人だからこそ、日本のことを批判的思考で見るべきです。

 

 

悪口はだめですよ。批判的思考です。

 

 

 

 

 

 

 

大日本帝国も、批判する者をどんどん弾圧して行って、批判的思考が0でした。その為、おかしな方向に向かっても、歯止めが効かず、国内外に大量の犠牲者を出しました。

 

 

特に酷いのは、軍隊の戦死者の6~7割が餓死か病死だったというもの。作戦のミスは、優秀な人を排除した事を物語っています。

 

 

戦前・戦中から、国民に色んな嘘をついて隠して、勝手に決めて、何か起きても、謝らない...昔の人がそれを改善しなかったのが問題です。

 

 

彼らの事なかれ主義のツケが、今の世代に回ってきました。結構深刻です。

 

 

私は反ワク活動を通じて、嘘をつく人達をたくさん見てきました。接種を推奨して、その結果被害が出ているのに、見て見ぬフリをして、嘘をつき続ける...。酷いと思っていましたが、昔から日本人はそうだったのです。

 

 

日本の将来の為にも、こういう部分は改善しないといけないと思っています。

 

 

批判的思考がなかった大日本帝国と同じ失敗はしないようにしましょう。