- 投稿
- 未分類
他県から引っ越してきた人から、「前に住んでいた場所では広島のような平和学習はない」...と何度か言われた事があります。
他県に比べると、戦争を伝える事に力を入れている県...ということみたいです。
その広島でさえ、自虐史観的な歴史は教えられていません。前回の記事では、大久野島をテーマにその話をしました。
㉒自虐史観の教育など現実に存在しない。大久野島の毒ガス製造の歴史はこのままいくと風化する
広島には、ジュネーブ議定書を無視して、毒ガスを作っていた加害の歴史があるのに、学校では教えてもらいませんでした。作っただけではなく、実際の戦闘で2000回以上使用していました。それがバレて、アメリカから2回も警告が来たほどです。
The American Presidency Project FRANKLIN D.ROOSEVELT

最近自分で調べて知って、怒っています。こんな重要な戦争遺跡が地元にあるのに、これまで知らなかったせいで、証言者から話を聞くチャンスを失ってしまいました。
教えないのは良くないです。反省や改善ができませんから。
広島には、毒ガス製造以外にも加害の歴史があります。あまり知られていないので、今回はその話をします。
広島県にある戦争の歴史が残る場所
広島県には、戦争にまつわる重要な場所があります。
原爆ドーム、平和記念公園は、言うまでもなく、被爆地として有名で、世界中から人が訪れる観光地です。ここは被害スポットです。
同じ広島市の中区には、広島城の敷地内に広島大本営跡があります。
広島市南区の宇品は、陸軍の輸送基地でした。
呉市は海軍の街として有名ですし、その近くの江田島市には兵学校がありました。
そして竹原市にある大久野島は、陸軍が毒ガスを作っていました。
広島市、呉市、江田島市、竹原市...これらの中には、戦争で被害を受けた場所もありますが、全て攻める為の拠点なので、加害スポットということになります。
位置はこうです。

学校での教え方に偏りがあるので、広島の人が、ここで紹介した全てを知っている訳ではありません。
例えば、私の周囲の人(私と同じ年~年上)に聞いたら、広島大本営と大久野島について知る人は、ほとんどいませんでした。
私は廿日市市の人間なので、親戚や知り合いが住んでしない呉市や竹原市は、同じ県内でも遠いところでした。
私が子どもだった80年代~90年代は、呉市海事歴史科学館(通称:大和ミュージアム)は出来ていなかったからなのか、平和学習で海軍の事は一度も習った事はありません。一度もです。
呉市には、コロナ禍になって、活動仲間が増えたので度々行くようになりました。2022年に初めて仲間とともに大和ミュージアムに行き、海軍の詳しい説明を聞きました。
2023年に、県外の仲間と江田島の第一術科学校に始めて行き、今年2025年に大久野島に行きました。
広島大本営の事は、10年くらい前に知ったのですが、それがあった広島城にわざわざ行こうとは思いませんでした。原爆で破壊されている事が分かったからです。
私の地元の歴史の知識はこんな感じで、偏りがありました。
広島は軍人も軍事物資もある軍都であった
原爆は、一般市民を殺害した事が問題視されます。小名木善行氏の動画でも、その事が語られています。
以下のように述べられています。
軍事施設を狙った空爆であれば、戦争行為とみなされます。
でも軍事施設ではない、一般の民家が集中しているところに焼夷弾を落としたということになれば、それは民間人に対する虐殺行為ということになりますので、これは戦争行為とはみなされないというのが、ハーグ不戦条約で決まっている国際法上のルールになります。
戦争にはルールがある。
そして、そのルールが破られて、この原子爆弾のようなものが落とされたということは、これは日本は間違いなく戦争をやっていました。
けれども、一方の当事国であるアメリカは、日本と戦争をやるのではなくて、日本人に対する虐殺行為を行うようになったわけです。これは戦争ではなく暴力です。戦争が暴力に変わった。
日本は外交上の究極の選択として、正々堂々と戦争をしていました。けれどもアメリカが戦争ではなくて、それを暴力に変えてきた。日本は暴力闘争をやるつもりは全くありませんので、自主的に戦闘行為を終わらせた。
だから8月15日は「終戦の日」と言います。敗戦の日ではない。
こういった動画だけ見ると、何も知らない人は、「民間人を狙って酷い。日本人よ立ち上がれ」という反応になるのでしょうが...
...
...軍事施設...ですから。広島は。軍人さん、もちろんいました。
長崎は知りませんが、広島は軍都であり、戦争によって潤った場所である事を忘れてはなりません。
【増補版】軍都廣島「廣島」と「ヒロシマ」を考える / 著者 清水章宏・橋本和正 広島県労働者学習協議会編
広島には2つの相対立する顔があります。一つはヒロシマ、もう一つは廣島であり、前者は世界最初の被爆地という被害の広島であり、後者は日本の侵略戦争の拠点という加害の広島です。
(2p)
軍都廣島 清水章宏
「軍都」とは
8月6日の原爆投下を境に「廣島」から「ヒロシマ」と街の呼び方を変えているのはなぜでしょうか。
反核平和の象徴としての「ヒロシマ」に対して、「廣島」はどういう意味合いをもつ街だったのでしょうか。
第2次世界大戦敗戦までの広島を「軍都」と表現することがあります。
軍都という呼び方は敗戦まで行政文書や新聞などで使われていた言葉です。
軍都とは、軍隊やその関連施設の存在が構造的な影響を与えている地方中核都市のことを言います。
都市ではなくても、多くの軍隊関連施設が存在し、影響を与えている地域をさして、軍郷とも言います
(5p)
ちなみに、私が子供だった80~90年代の広島の平和学習では、広島が軍都だと教えられた事は一度もありません。そういうのをすっ飛ばして、被爆した広島の話を教えられました。
しかし、私より一回り下の人に聞くと、広島大本営があった事は習ったそうです。ちなみにその人は、大本営は習ったけど、毒ガス製造は習わなかった...と言っていました(つまり毒ガスの方が、「注目して欲しくない歴史」だと思われる)。
でも、私が学生だった時に比べて、徐々に「加害の歴史」に目が向くようになった事が解りました。調べてみると、「広島平和教育研究所」が出版した平和カレンダーに、加害の歴史がありました。そこには、こう書かれています。
平和教材として、ヒロシマ平和カレンダーをご活用ください。
広島平和教育研究所では、毎年「ヒロシマ平和カレンダー」を作成し、県内の学校等に配布しています。 平和の大切さと8月6日のヒロシマを繰り返さないための教材として、学校や家庭、地域などでどうぞご活用ください。
これなのですが、なんと大久野島も載っていました。学校に配布しているとの事なので、すごい進歩です。ちょっと見直しました。
このカレンダーは、私が知らない事も載っており、広く浅く学べるので読み物としてもいいです。
2021年度 軍都だった廣島 ~軍事都市から平和を祈る街へ~

広島大本営
広島県の戦争の歴史「軍都廣島」の始まりは、広島大本営です。
被害スポット原爆ドームや平和記念公園のすぐ近くに、広島城があります。この敷地の中に、かつて大本営が置かれました。
『日清戦争 秘蔵写真が明かす真実 / 著者:中京大学教授 檜山幸夫 / 1997年』
だが、広島大本営の設置は伊藤が予想していなかった大きな結果を生みだしていく。
それは対清開戦に消極的であった明治天皇が率先して戦争を指導して「軍人天皇」像を築いたこと、大名華族が旧藩主の地位を復活させながら、天皇の臣下として自らの役割を見いだし、戦争に協力し挙国一致の体制造りを保管したこと、天皇親征の実を示したことから大量の民衆が動員され、それが戦争支援体制形成の契機となったこと、民党勢力が臨戦地広島に召集されて天皇への忠誠を表明し、藩閥政府との強調路線に転じたことにほかならない。
その意味で、日清戦争は広島大本営があってはじめて勝利したともいえよう。
(76p)
変わったのはお上だけではありません。国民にも大きな変化がありました。人は自分が強いと勘違いすると、調子に乗るようです。
『日清戦争 秘蔵写真が明かす真実 / 著者:中京大学教授 檜山幸夫 / 1997年』
日清戦争に勝利した日本は、確かに大きく変わった。
戦前までは、あれほど強かった嫌軍意識や避戦意識はきょくたんに弱まり、社会は軍隊を賛美し、軍人優待の制度化が進んでいく。
地方の名望家や凱旋兵士によって、全国津々浦々にいたるまで征清記念碑や戦没者墓碑が建立されて、出征兵士と戦没者が讃えられ、彼らは名士となる。
軍人美談が読まれ、戦闘名場面が芝居の題材となっていく。勇敢なる兵士は、子どもの成長を祈る願掛けともなり、子どもは軍歌を唱って戦争ごっこで遊び、陸軍大将や海軍大将が双六の上がりとなり、学校は唱歌に軍歌を採り入れ、兵式体操で子どもを鍛え「少国民」を育てていく。
日本に留学してきた清国人留学生を「ちゃんちゃん坊主」とののしり、石を投げつけ、差別感をあらわにする。
日本の民衆は、日清戦争によって、初めて国家と天皇を認識し、軍隊を容認し、日本人であることを自覚する。
民衆は、それまでの「民」から「国民」に成長し、さらに「軍国の民」へと変質していく。
幕末、明治維新から形成されていった国民国家は、「国民的戦争」となった日清戦争を通して、日本的国民国家を確立させた。
(15p)
調子にのると、コロっと考えを変えます。
ここでのポイントは、日清戦争前までは、戦争反対ムードがあった事、そして、日清戦争によって国民意識が芽生えた事です。
よく「日本人としての誇りが~」...等と言って大衆を熱狂させる人がいますが、その日本人としての意識そのものが、明治になって軍国主義の元で人工的に作られた概念なのです。昔から、この国に住む人々の心に、自然に存在した気持ちではありません。
広島が加害都市である理由は、実際に戦争の司令塔として使われただけでなく、その後の国民の心を形作ってしまったことにあります。
【増補版】軍都廣島「廣島」と「ヒロシマ」を考える / 著者 清水章宏・橋本和正 広島県労働者学習協議会編
「国民」の形成
大本営が広島に設置されたことにより、戦争の情報は広島市にすぐ伝えられます。
戦勝の報道が届くたびに国旗、提灯などの掲揚が指示され、祝賀行事に市民を動員しました。
戦時下の日本各地で行われた戦勝祝賀のモデルは、廣島での行事であり、それが全国に波及したと言えます。
そして、そのさまざまな行事を通じて日本人の「国民」としての意識が形成され、日本が近代国家・国民として発展していくこととなりました。
(34p)
戦争に熱狂する心を、広島の人々が作り上げたのだとしたら、その責任は大きいと思います。
この心がエスカレートして、他の県にも飛び火し、以下のような言葉が新聞で使われるようになったのです。以下は南京陥落の祝賀を伝える内容ですが、凄い文章が書かれています。

当時の日本人の考えがよく解ります。敵国の民間人に対しての配慮は0です。
大久野島で毒ガスを作っていた、故・藤本安馬氏も、当時の熱狂を語られていました。

最初にこの文化を作ったのが広島だということを忘れてはいけません。
基本的に広島は、後方支援としての役割だったのですが、後に変わっていくことになります。
【増補版】軍都廣島「廣島」と「ヒロシマ」を考える / 著者 清水章宏・橋本和正 広島県労働者学習協議会編
戦局の悪化にともない、軍都廣島の役割に新たに陸軍司令部機能が加わってきました。
もともと最前線としての機能ではなく、後方支援補給兵站機能が中心であった広島に、本土決戦に備えての対応が求められてきたのです。
(68p)
後方支援機能に加えて、本土決戦としての機能が拡張されたなら、狙われるでしょうね...。
【増補版】軍都廣島「廣島」と「ヒロシマ」を考える / 著者 清水章宏・橋本和正 広島県労働者学習協議会編
他の軍都にないもう一つの廣島の出来事
1945(昭和20)年8月6日の原子爆弾被害は、軍都廣島にもう一つほかの軍都と違う歴史をもたらしました。
現地の第2総軍司令部の独断で、広島市の行政を軍隊の指揮下におくという命令が出されました。
非公式ではありますが、広島市内に事実上の「戒厳」がひかれたのです。
(中略)
第2総軍司令部は8月6日夕方、宇品の陸軍船舶司令官にすべての陸軍部隊を指揮して戦災処理を行うとともに、在広行政機関を指揮下に入るよう命令しました。
宇品に司令部を置いていた陸軍船舶司令官が廣島警備担当司令官に任命され、非公式ながら「厳戒司令官」としての権限をもって、原爆被害復旧作業を指揮したのでした。
次は、この宇品について解説します。
日本軍の輸送基地、宇品
宇品から、戦地へ向けて様々なものが輸送されました。
現在は色んな移動手段があるので、この港を使う人は限られていますが、戦時中の兵隊の日記を読むと、広島や宇品が登場し、よく利用されていたことが分かります。
以前南京大虐殺に参加した皇軍兵士の日記を読んだのですが、中国出発前に通過した、広島や宇品の様子も描写されていました。南京大虐殺に関わった人材を送ったのも広島だということを実感しました。
この港を中心に、鉄道も計画的に作られました。
【増補版】軍都廣島「廣島」と「ヒロシマ」を考える / 著者 清水章宏・橋本和正 広島県労働者学習協議会編
戦場である朝鮮に一番近い港は博多です。熊本第6師団は、博多から朝鮮に輸送されます。しかし、国内の鉄道は、博多まで開通していませんでした。山陽鉄道は工事中だったのです。
宇品港のある広島まで鉄道を急ぎ開通させるよう日清戦争の1年前の1893年に陸軍大臣から内閣に書面を送るだけでなく、陸軍省から直接山陽鉄道へ工事を急ぐよう督促しています。
日清戦争開戦の1年前から、すでに日本は戦争計画の中で、宇品港を出撃基地とし、広島までは鉄道で兵員、物資を運ぶというシナリオが組まれていたわけです。
広島までの鉄道完成と、制海権確保のための艦隊の整備が戦争開始の国内条件でした。その鉄道線路を海から守るために沿岸の要塞建設も同時にすすめられました。
よく、「日清戦争のとき、広島まで鉄道が開通していたので、宇品港が出撃基地として使われた」という表現をしますが、正確には「出撃基地として決めてあった広島の宇品港までの鉄道工事を完成させ、それを待って日清戦争を開始した」と言うべきです。
広島県内の山陽本線の福山駅や三原駅が、お城の一部を取り壊して建てられているのは、用地買収の手間をはぶくなど、突貫工事だったのかもしれません。
(15~16p)
民間人だけが住む都市ではありません。戦争で傷ついた軍人の受け入れ先病院もあったので、入院患者も沢山いました。
【増補版】軍都廣島「廣島」と「ヒロシマ」を考える / 著者 清水章宏・橋本和正 広島県労働者学習協議会編
戦争が中国大陸から太平洋に拡大すると、アジア、太平洋全域の陸軍の海上輸送を指揮しました。
日本の戦争を支える「輸送」という大動脈の司令部は広島に在り、軍都廣島の組織と設備がなければ日本は戦争を続けることはできなかったのです。
(19~20p)
原爆が落とされた理由も、軍都だったからの可能性が高いです。
『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ / 著者:堀川惠子』
太平洋戦争末期、アメリカは原爆投下候補地を選定するための「目標検討委員会」を設置。昭和二〇(一九四五)年四月から七月下旬まで、日本のどの町にその運命を負わせるか議論した(以下「目標検討委員会会議要約」アメリカ国立公文書館所蔵)。
第一回委員会は、四月二七日。B29の航続距離や爆撃効果未空襲の地域などの要素を勘案して、「広島・八幡・横浜・東京」を筆頭に、川崎・名古屋・大阪・神戸・呉・下関・熊本・佐世保など一七の都市を研究対象とした。
第二回委員会は、五月一〇、一一日。ここで四つの勧告目標が固まった。「京都・広島・横浜・小倉」である。特に京都と広島には「AA級」の記号が付され、「A級」の横浜・小倉より高い順位に置かれた。
この時点で後の被爆地はキョウト・ヒロシマであったが、最終的に古都を破壊すると日本人の反発が強まり、占領後の統治が難しくなるとの懸念から京都は外された。
いずれにしても広島という地名だけは、議論の最初から最後まで常に候補地の筆頭にあがりつづけた。広島が標的として選ばれた理由の冒頭には、こんな記述がある。
an important army depot and port of embarkation(重要な軍隊の乗船基地)
広島には、重要な「軍隊の乗船基地」がある。これに加えて、町に広範囲な被害を与えられる広さがあり、隣接する丘陵が爆風の集束効果を生じさせて被害を増幅させることができる、と説明は続く。
広島で軍隊の乗船基地といえば、海軍の呉ではない。陸軍の宇品である。
日清戦争を皮切りに日露戦争、シベリア出兵満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争と、この国のすべての近代戦争において、幾百万もの兵隊たちが宇品から戦地へと送り出された。
何度も討議が重ねられた目標検討委員会で、広島が一度たりとも候補から外れなかった理由。それは広島の沖に、日本軍最大の輸送基地・宇品があったからである。
私は広島で生まれ育ち、二〇〇四年まで広島で記者として働いた。当時、宇品の海岸あたりは古びた倉庫群や船会社、小さなドックが建ち並び、ときの流れが止まったかのようなさみし気な場所という印象があった。取材で足を運ぶこともあまりなかった。
その宇品地区も近年、一気に再開発が進み、人の流れも景色もすっかり変わった。
埠頭一体には美しい公園が整備されかつての倉庫街はベイエリアと呼ばれるようになった。若者たちをターゲットにしたカフェやセレクトショップ、ショッピングセンター、最近では新しいマンション群も目立つ。
いま宇品の埠頭周辺を歩いてみても、ここに人類初の原子爆弾の標的として狙いをつけられるような重大な軍事拠点があったことを思わせる痕跡は何ひとつない。
戦争のたび数多の兵隊を送り出した旧陸軍桟橋はとうに埋めたてられ、わずかに石積みの一部を残すだけ。港のあちこちに立つ看板も観光案内ばかりで、軍港宇品にかんする史料館もない。逆にここまで見事に何もないと、まるで意図的に消されたかのような印象すら受ける。
世に出ている文献をあたれば、通りいっぺんのことはわかる。宇品地区の中心にあったのが「陸軍船舶司令部」だ。年配の広島市民にとっては、この正式名称よりも「暁部隊」の呼び名のほうがしっくりくるだろう。
船舶司令部は、戦地へ兵隊を運ぶ任務とともに、補給と兵站(前線の部隊に軍需品や食糧を供給・補充すること)を一手に担った。船員や工員ら軍属をふくめると三〇万人を抱える大所帯で、数えきれないほどの雑多な下部組織が存在し、その規模は前線の方面軍ひとつに相当するほど巨大だった。
司令部の周辺には、糧秣(兵隊の食糧や馬の餌)を生産する陸軍糧秣支廠、兵器を生産する陸軍兵器支廠の工場群と、それを備蓄する倉庫群がひしめき合っていた。
近年、「被爆建物」として保存が議論されている全長九四メートルもの巨大な赤レンガ倉庫も、軍服、軍靴、飯盒、毛布などを生産した陸軍被覆支廠のほんの一部だ。
これら膨大な軍需品が宇品から輸送船に載せられ、方々の戦地へと運ばれた。
宇品の心臓部、船舶司令部とは一体どんな組織だったのかその実態については、現在に至るまでほとんど情報がない。
ペリーの浦賀来航以降の海事にまつわる全事項をまとめた大著『近代日本海事年表』にも、なぜか船舶司令部は一度も出てこない。
船舶砲兵や船舶工兵といった末端の部隊の手記は存在するが、司令部については何も見当たらない。原爆投下の目標とされたにもかかわらず、研究者もいない。世界中から人々が訪れる平和記念資料館にも、展示の片隅に小さなパネルだけ。
船舶司令部そして軍港宇品を知る手掛かりは完全に封じられてしまっている。
このような重要な役割をした場所の情報が、きちんと記録されていない事に驚きです。
広島市は民間人も住んでいましたが、軍隊の基地があるので、軍人もいました。原爆投下時刻は、陸軍の軍人が広場で朝礼と訓練を行っていた最中でした。
爆心地近くなので大ダメージで、軍隊の急所に被害を与えたのです。
呉市
広島市から少し離れたところに呉市があります。海軍の街です。
海軍や呉を題材にした映画もあるし、歴史好きには有名ですが、学校の授業では、呉市の海軍のことは習いませんでした。
以下の教科書の索引を確認しても、名前すら出てきません。

学校や教科書は残念ですが、呉市は違います。加害の歴史でもありますが、隠さずに、堂々と宣伝しているので良いと思います。
大和ミュージアムができる経緯をみても、積極的に伝えようとしている感じが伝わってきます。
日露戦争・日本海海戦から100年目、大東亜戦争(太平洋戦争)終戦から60年目にあたる2005年4月23日に開館した。
愛称の「大和ミュージアム」が示すように、旧日本海軍の超大型軍艦「大和」の建造と軍事活動が中心となっている。
構想あるいは建設に関しては、「戦争責任」について様々な意見を向ける旨もあったが開館以来盛況を続けており、呉市の歴史的観光資源を再発見するきっかけとして呉市を全国的観光地に一躍押し上げた立役者である。呉市の経済社会にも影響を与えており、様々なイベントが行われる地域拠点の役割も果たしている。
初代館長の戸髙一成は、当館の展示が戦争賛美ではなく、とくに戦艦大和建造など軍事や戦争によって発達した産業技術そのものとその使われ方(軍事目的)とは分けてとらえるべきだとしている。
館の方針としては、当館を「平和学習の場」として開放するため、実物の兵器や当時の映像フィルムなどの歴史的資料を淡々と提示するかたちで意見や注釈は付けず、政治的に中立的な立場をとるよう努めている。「歴史認識についての判断は来館者個々に任せる」という方針を採用している。
あれだけの建物ですから、関わっている人も多いし、お金も相当かかかっています。
1994年 - 1995年にかけて、戦艦大和を博物館の核としていくことに構想が固まっていった。しかし、県側は(海)軍事色が強い博物館を県立として開館することは難しいことを呉市に伝えた。
そこで小笠原は1996年12月の市議会で、博物館建設に市主体で取り組むことを正式に表明した。1997年に呉市は主要プロジェクトの1つとして海事博物館建設を明記し、同年9月の市議会で呉駅南側の宝町地区を博物館の建設場所とすることが表明された。
財源は国(防衛施設庁・科学技術庁)・県への働きかけに加え、呉市博物館推進基金、呉商工会議所の募金委員会などを設立し民間資金の活用も行われた。最終的に事業費総額65億円のうち、国・県・地方交付税・募金等が約36億円、市負担が約29億円となった。
2008年度より指定管理者制度が導入され、学芸部門は引き続き呉市が、管理運営・広報などは「大和ミュージアム運営グループ」が担当している。
私が学生だった時と違って、「大和ミュージアム」があるので、
2025年の広島は、平和学習や社会見学で、呉の歴史を学ぶ機会があるかもしれません。

なお、今年は戦後80周年です。生き証人がかろうじて残っている大事な節目に、大和ミュージアムは改装の為、閉まっています。戦後80年だからこそ行きたい...という声があるのに...。
改装自体は良いのですが、この時期はズラすべきでした。
リニューアルオープンは、2026年4月の予定です。休館中は、工事中の見学があったり、少しの展示物が見れるそうです。
ちなみに、呉は将来、弾薬庫が置かれます。
広島平和教育研究所 2024地域シンポジウム「軍事拠点化が進む呉で考える地域主義」開催
江田島市
呉が船を作る場所なら、江田島は軍人を育てる場所です。
江田島には、大日本帝国海軍の将校たる士官の養成を目的とした教育機関がありました。
海軍兵学校は、イギリスの王立海軍兵学校、アメリカの合衆国海軍兵学校とともに、世界三大兵学校の一つに数えられたそうです。
現在は海上自衛隊の幹部候補生学校や第一術科学校などになっています。施設の一部は見学ができます。
被害者の視点に偏った広島の平和学習
広島でも、「加害者」としての学習はほとんどありません。市のHPにある平和関係のページを見ても「被害者」として作られています。
加害者としての歴史は、何年に何処で何があったか...程度。データを伝えるだけといった感じです。
一方、被害者としての歴史は、映画を見たり、証言者を呼んだり、平和記念資料館に見学に行ったり、ストーリーを読み聞かせる...等、伝え方が豊富にあります。
データはほとんど記憶に残りませんが、ストーリーは記憶に残ります。客に対して商品の魅力を伝える場合、後者が良いとされます。被害者として訴える場合は、後者の方法がよく使われています。
広島には被害と加害、2つの歴史がありますが、教え方は偏りがあると思います。
自分達がやったことは棚に上げて、された事ばかり語るのは、都合がよすぎるので、同じくらいの熱量で、後世に伝え残してほしいものです。
自虐史観によって自信は無くすものなのか
日本人が教えられてきた歴史は、自虐ではなかった...と説明してきました。しかし、「もし自虐だったら...」という過程の話もしておきます。
「日本の学校では本当の歴史は教えない」とか、「自虐史観を植え付けられて、日本人は自信を失った」...という人がいるのですが、誰が言い出しっぺなのでしょう。
私は歴史教育を真に受けて、それが原因で、自信を失っている人を一人も見た事がありません。
受験勉強の為に、情報を叩き込まれるので、出来事に驚くことがあったとしても、一々干渉には浸らないです。
仮に「悲惨な出来事があって、それを日本人がやったんだ、残虐な民族だ」...と習ったとしましょう。
でも、「へー、そんなことがあったんだ」で終わりです。他人の性格が酷いからと言って、それで自分まで酷いと思って落ち込みません。
「知らない他人」が失敗しても、それで自分の自信は失わないです。普通は。
例えば、日本の政治家が裏金事件を起こしたり、日本人がオリンピックで金メダルを取れなかったりしたら、それを知った翌日から、「日本人が失敗したから、同じ日本人である自分もダメなんだ...」と自信無くす人います?私の周りにはいません。
他人がやった事で、こちらまで迷惑したら、反応しますが、実害がなければ、何とも思わないのが普通です。
「昔の日本人がやった事が原因で、現代人の気持ちが落ち込み、自信がなくなる」...という設定は無理があります。
昔の日本人とは、「昔の他人」です。他人がやった事なので、同じ理屈です。
私は昔の日本人の悪事を問題視していますが、どんなに詳しくなっても、自信は無くしません。よその爺さんがやった事だからです。
もし自分の爺さんだったら...このケースでも、自信は無くしません。身内でも人格は違いますから。
日本人は今も昔も自信たっぷり
バブル期等、日本が強気だった時代がありました。みんな忘れてますが、旅の恥は掻き捨てと言って、海外に旅行に行って、迷惑な振舞いをする日本人が問題になったこともありました。セクハラ、パワハラは当たり前にあったし、ブラック労働が美談のように語られていました。
その人達も、学生時代に歴史を学んでいます。その内容が自虐だとしたら、彼らが大人になった時、傲慢になったのは何故なのでしょう?学校の授業と、本人の自信とは何の関係もないことが解ります。
過去に日本人がどんな事をしていても、戦争で外国人が傷つこうが、日本人が傷つこうが、国民は無関心です。
自信を失うような人は、いたとして、何%くらいでしょうか。
私はワクチンの啓蒙活動をして5年になりますが、他人の苦しみ、不正・腐敗に対して、無関心な人が多いと感じます。ワクチンを打つ悪事、後遺症に苦しむ悲惨さを教えても、ほとんどの人にとって人ごとです。
日本の出来事だろうが、どんなに酷かろうが、そもそも「自分に関係がない事」は興味がないのです。
「現代の酷い状況」にも心が動かない人達が、「過去の酷い状況」に心が動くはずがないと思っています。
みんな他人の事に無関心です。他人の問題や欠点を知って、傷ついて自信をなくすような感性の人ばかりなら、ワクチン啓蒙活動は苦労しません。
自虐は教えられていないし、仮にあったとしても、日本人は自信を無くしたりしません。












