投稿者:aki

 

日本側が「アジア解放」だと言い張っても、被害国は違う見解を持っていると思います。

 

 

被害者が嘘をつく可能性もあるので鵜呑みにするのは良くないですが、

 

 

もし被害者が複数いて、「お互いに全く接点がない被害者」の証言内容が一致しているなら、それは正確だと捉えて良いでしょう。

 

 

 

結果はどうだったのか

 

 

 

記録を見ると、日本は感謝されてない感じです。

 

 

『太平洋戦争と国民総動員 / 著者:小野賢一』

 

 

特徴的なのは、彼らは解放を口にはしても具体的ではない、ある国の解放=独立に日本がどう貢献したかを指摘しないことである。なぜそうなのか?

 

 

具体的にのべると、たちまち国の内外から反論され、根拠のなさが白日のもとにさらされるからである。

 

 

まったく仮定のことだが、もし日本がある国の解放・独立に貢献したとするなら、公的に感謝されることがあっても不思議ではない。

 

 

もっといえば、太平洋戦争の責任者の一人であった戦犯・東條英機が東京裁判の判決によって処刑されたのは遺憾だ、と公的に表明されても不思議ではないだろう。しかし、そのようなことはなかった。

 

 

サンフランシスコ講和会議でも、日本の侵略戦争のおかげで独立できたという主張はない。

 

 

八八年五月、参議院外務委員会で共産党の吉岡吉典議員の質問にこたえて、外務省の条約局長もつぎのように確認している。

 

 

吉岡議員 日本の戦争のおかげで独立したと感謝を述べた国が一つぐらいありましたか。

 

斎藤条約局長 そのような声明を行った国はなかったと承知しております」

 

 

 

感謝するどころか、あとでみるように、反対に日本軍国主義を糾弾したのである。それは、言語に絶する犠牲と被害をうけたからであり、なにより各国の独立はそれぞれの民族の事業として第二次大戦後に実現したからである。

 

 

(215~216p)

 

 

 

お前が頑張れたのは俺のお陰...と言う発想は、例えそうだったとしても、かなり厚かましい考えです。

 

 

英国の方がマシと思われた日本統治時代

 

 

今から20年以上前のことです。私は台湾に住む高齢者から、日本統治時代の治安の良さを聞かされたことがあります。

 

 

それを聞いた時は嬉しかったです。

 

 

その為、戦争で関わった他の地域からも同じように評価が高いのだろう...と、漠然と思っていたのですが、後になって調べてみるとそうではありませんでした。

 

 

特にガッカリしたのは、以下の、日本人に統治されるより、英国の保護下の方がマシだったという意見。全然解放になっていません。

 

 

『日本会議 戦前回帰への情念 著者/山崎雅弘』

 

例えば、日本軍が一九四二年二月に占領したシンガポールでは、国立博物館の歴史展示コーナーで、同地の日本統治時代がいかに苛酷で苦しいものであったか、いかに多くの住民が犠牲になったかが説明されています。

 

市内のあちこちには、日本軍統治時代の住民虐殺(日本側の記録では約五〇〇〇人、シンガポール側の歴史記述では約五万人の住民が、日本軍の憲兵によって虐殺された)や憲兵隊本部での拷問などを示す記念碑が建ち、市の中心部には日本軍占領期に死亡した大勢の住民を慰霊する巨大な記念碑が立っています。

 

シンガポールを占領した日本は、この島の名称を勝手に「昭南島」へと変更して、終戦まで日本の支配下に置き続けましたが、シンガポールを独立させる計画は皆無でした。

 

シンガポールの初代首相で「シンガポール建国の父」と呼ばれるリー・クアンユーは、自分が 青年時代に経験した日本統治時代について、次のように書き記しています。

 

〈日本占領の三年半、私は日本兵が人々を苦しめたり殴ったりするたびに、シンガポールが英国の保護下にあればよかったと思ったものである。

 

同じアジア人として我々は日本人に幻滅した。

 

日本人は、日本人より文明が低く民族的に劣ると見なしているアジア人と一緒に思われることを嫌っていたのである。

 

日本人は天照大神の子孫で、選ばれた民族であり遅れた中国人やインド人、マレー人と自分たちは違うと考えていたのである〉

 

(『リー・クアンユー回顧録』日本経済新聞社、上巻三五ページ)

 

(166~167p)

 

 

 

 

選民思想と差別意識...この考えが根底にあると、行動にも反映されますし、嫌われます。

 

 

そして、日本の評判が悪いのは、シンガポールだけではありません。

 

 

演説で語られた各国の思い

 

 

一つの国だけに叩かれて、他の国から感謝される...とかだったら、叩いてきた国の意見に懐疑的になりますが、複数の国から批判されると、「もしかしたら、こちらが間違ってるのかな?」...と、なりませんか。

 

 

『太平洋戦争と国民総動員 / 著者:小野賢一』

 

「アジア解放」の実態

 

 

太平洋戦争で戦火が及んだのは、北はアリューシャン(アッツ・キスカ島)、千鳥、日本本土、とくに沖縄、台湾、中国本土、インドシナ半島、フィリピン、タイ、マレー半島、ボルネオ、インドネシアの諸島、チモール島、ビルマ、インドの一部、南洋群島、ソロモン諸島、ギルバート諸島、ニューギニアなどである。

 

 

日本は東南アジアと西太平洋の島々を占領したが、それらは、タイをのぞき、当時はイギリス、オランダ、フランス、アメリカ、ポルトガルの植民地であった。この広大な空間で、日本軍が攻撃し米英蘭その他の軍隊が反撃し、大きな被害が生じたのである。

 

 

人的損害にかぎっても、中国では一〇〇〇万人以上、インドネシア四〇〇万人、ベトナム二〇〇万人、インド一五〇万人、フィリピン一一一万人、朝鮮二〇万人以上、オーストラリア二・三万人、ニュージーランド一・一万人、さらにシンガポール、ビルマの人びとが生命をうしない、総数は二〇〇〇万人以上と算出されている。

 

 

これに日本人の犠牲者がくわわる。日本の軍人・軍属などの戦死者二三〇万人、国内での空襲などによる死者五〇万人以上、総数で三一〇万人である。

 

 

「太平洋戦争=アジア解放」論者は、戦争によるこれらの犠牲をふみこんで描くことはしない。むしろ口をつぐみ、当時の東南アジアが欧米の植民地にあったこと、戦後に独立したという、この二つを並べて、日本がその解放に貢献したように印象づけようとしているだけである。

 

 

太平洋戦争開始から一〇年後のサンフランシスコ講和会議では、アジア各国の代表の演説に日本軍国主義への糾弾があった。四つだけあげておこう。

 

 

インドネシア代表アーマド・スバルジョ「占領期間中にインドネシアが被った損害は二重であります。第一に、約四百万名の人命の損失があり、第二には数十憶ドルの物質的損害があります」

 

 

フィリピン代表カルロス・P・ロムロ「一千八百万の人口のうち、われわれは百万以上の生命を失いました。生命の損失の他に未だに癒されない程深い精神的傷手を蒙りました。四年間に亙る野蛮な占領と侵略者に対する不断の抵抗の後、わが国経済は完全に破壊し去つた」

 

 

ベトナム代表チャン・バン・ヒュー「物質的のみならず、その人民の生命においても最大の戦禍を蒙つた・・・・・・そして占領の悲惨な結果に陥し入らしめられた幾多ヴィエトナム人に対し私が今日敬虔な思いを致さなかつたならば、私はわれわれの死者に対する義務を欠くることになる」

 

 

オーストラリア代表ペルシ―・シー・スペンダー「〔オーストラリアの〕数限りなき死者、生き残つた不具者や盲目者、再び帰ることのない愛する者を弔う人々の悲しみ、戦争の捕虜となつた人々の失われた歳月、及びこれらの人々を待つていた苦悩」は深い(外務省『サン・フランシスコ会議議事録』)。

 

 

日本軍による暴虐へのうらみは、いまなおアジア各地に深く沈殿している。

 

 

この戦争の最高責任者であった天皇は、アジア・太平洋の人びとに謝罪することなく八九年に死去したが、敗戦の翌年につぎのように語っていたことが、九〇年に発表された『昭和天皇独白録』に収録されている。「私の考えは正しかった」とする末尾は、こうである。

 

 

「私が若し開戦の決定に対して『ベトー』(拒否)したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になつ〔た〕であらうと思ふ」。

 

 

日本にひきよせて問題にしているのだが、開戦の決断で、戦争の犠牲はむしろ数分の一にとどまったとしていたのである。恐るべき神経である。

 

 

歴代保守政権も、あの戦争を侵略戦争とみとめてアジアの人びとに謝罪することをしていない。

 

 

(216~218p)

 

 

これに関しては、私はあえてコメントしません。被害を受けた国の人の立場を考えると言葉が出ないです。

 

 

各国の演説を聞いて、それでも「解放」と言い張る人は...いるかもしれませんね。

 

 

「ワクチン死」を「コロナ死」であるかのように報道する国ですから...。

 

 

 

 

 

 

次は、軍事裁判の結果を見てみます。

 

 

BC級の戦犯裁判の結果

 

 

「アジア解放」論を太平洋戦争に即して、検証する続きです。

 

 

『太平洋戦争と国民総動員 / 著者:小野賢一』

 

数限りない戦争犯罪

 

 

日本の敗北のあと、アジア、太平洋の各地でBC級の戦犯裁判がおこなわれた。

 

 

東京裁判の被告がA級であるのにたいして、特定の地域で「通例の戦争犯罪」をおこない、各国の軍事裁判に付された人びとはBC級戦犯とされた。

 

 

犯罪は捕虜と非戦闘員の殺害、虐待が圧倒的である。

 

 

アメリカ、イギリス、オーストラリア、フィリピン、フランス、オランダ、中国(国民政府)の七ヶ国、四九ヵ所で法廷がひらかれた。

 

 

件数は二二四四、裁判にかけられた人は五七〇〇人、判決は死刑が九八四人、無期刑が四七五人、有期刑が二九四四人、無罪が一〇一八人、その他、起訴取り下げ・控訴棄却が二七九人である(法務大臣官房司法法制調査部、七三年八月)。

 

 

起訴されたのは憲兵関係、捕虜収容所関係者が多い。

 

 

これには、ソ連、中国(中華人民共和国)の分ははいっていない。

 

 

先にふれたように、これらの裁判についても日本政府はサ条約で受諾しているのである(「日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し・・・・・・」)。

 

 

さらに、泰緬鉄道の問題もある。この鉄道は、タイとビルマの山岳・密林地帯四一五キロを、六万五〇〇〇の連合軍捕虜と三〇万ともいわれる東南アジアの労務者をつかってむすんだ軍用鉄道で、四二~四三年の一年三ヶ月で完成させた。

 

 

これによって、一万六〇〇〇の捕虜が飢え・疾病・虐待のため死亡し、アジア人の労務者の半数は自分の国に帰国していない。

 

 

建設にからんでBC級戦犯が数多くでて、有罪宣告者は一一一人、うち死刑が三二人であった(『東京裁判ハンドブック』)。

 

 

しかし、建設に動員され残酷なあつかいをうけて命を落としたアジア人について、責任を問う裁判はなかった。

 

 

(224~225p)

 

 

 

「いつまで謝ればいいんだ」と言う人がいますが、そもそも、日本は本当の意味で、謝罪も反省もしていません。

 

 

ただ「ごめんなさい」と言ったり、お金を配ったりするだけでは、通用しません。

 

 

原因を突き止め、反省し、再発防止にむけて取り組まないと、「大人の謝罪」とは言えないからです。

 

 

この理屈は、ワクチン被害にも当てはまります。

 

 

金だけ払って謝罪したフリをしても、被害者は納得しないでしょう。もしそんな態度をとれば、逆に怒りは大きくなります。

 

 

原因解明、反省、再発防止に向けた取り組みがなければ、本当の意味で謝ったことにはなりません。

 

 

被害者は、二度と同じような事が起きて欲しくない...と思うものだからです。

 

 

重要なポイントは「動機」

 

 

戦前の日本人が悪かったという話をたくさん紹介すると、「それでも、良い事をしたという話も沢山ある。」と言って、一部の良い話を教えてくれます。

 

 

だから侵略ではない...と主張したいのかもしれませんが、それは無理があります。

 

 

日本人が良い事をしたという話はあると思います。全部が悪いとは思いません。良い事は良い事なので、そこまで全否定するつもりはありません。

 

 

しかし、その一部分は、残念ですが、全体の目的を分析・把握するうえであまり参考にはならないのです。

 

 

「侵略」と捉えるべきか、「解放」と捉えるべきか...を判断する場合、一番重要なポイントは「動機」です。

 

 

戦争は大勢の人達が長い時間をかけて、実行に移すものです。

 

 

その為、ドラマとして見ると、「良い人」もいれば「悪い人」もいるし、同じ人物でも状況によって「良い事」をしたり、「悪い事」をします。

 

 

規模が大きくなればなる程、「予想外の事態」が起きる確率が高くなるので、「最初の計画」とは違った結果になる場合もあります。

 

 

従って、一つのストーリーでも、切り取り方によって、良くも悪くもなります。

 

 

戦争は縦社会の組織が計画し、それを元に大勢の人をコントロールして実行に移します。

 

 

従って、「計画を元に生じる一連の出来事」の本質を理解する時に、重要な部分は、「最初の動機や計画」です。

 

 

この部分に計画者の意図や目的が一番表れています。

 

 

出来事の本質を理解するうえで、次に参考になるのが「結果」です。

 

 

戦争の場合、「アジア解放」という建前で行って、その結果、「現地がどうなったか」という部分です。

 

 

現地は本記事でご説明したとおりです。結果をみれば、日本人がやったことは悪い事であり、

 

 

心から「共栄」など考えていなかった事が分かります。

 

 

大人なのですから表向きは良い事を言うものです。本音を見ましょう。

 

 

そして日本人の場合、白と決めたら、黒でも「白」と言い張るので、そういうことも注意する必要があります。

 

 

侵略の結果、戦後も残る問題

 

 

日本は戦前・戦中に、アジアの国に大変迷惑をかけたのですが、戦争が終わっても、昔の影響を受けて苦労している人達がいます。

 

 

以下は、菅野完氏が、蓮舫氏の二重国籍問題について語っている動画ですが、見て欲しいのは(8:00~)からです。

 

 

大日本帝国領だった人達の戸籍について。日本側の対応がクソです。

 

 

 

 

「大東亜共栄圏」とか「五族協和」とか言って、つるんでいたのにも関わらず、戦後は冷たく切り離す。

 

 

表向き良い事を言っていても、この冷たさに本音が表れています。

 

 

余談ですが、菅野氏が話している、人を棄てる話は、以下の動画でも別の角度から語られており、日本は同胞に対しても酷いことが良く分かります。

 

 

 

 

 

侵略を「侵略じゃない」と言うと、ブーメランになる

 

 

これまで「アジア解放」説を叩いてきました。

 

 

そうするのは、嘘が嫌いだからなのですが、他にも理由はあります。

 

 

「アジア解放」説を唱えている人達は、自分達の過ちを胡麻化せば、責任を取らなくて済むので、「逃げ得」だと思っているのかもしれません。

 

 

しかし、この態度は長い目でみると、日本人にとってマイナスにしかならない考えです。

 

 

悪事を「良い事」のようにしてしまうと、ブーメランになります。

 

 

 

例えば、日本軍がやった虐殺、略奪、強姦を「侵略」と言わない...と定義するなら、

 

 

戦後GHQが日本に入って来てやった事も「侵略」でも「植民地」でも「占領」でもないということになります。それこそ「日本解放」といわれますよ。

 

 

現在、日本が抱えているあらゆる問題を、何でもかんでもGHQのせいにする人が多いのですが、GHQは日本軍が他国で行っていた行為に比べると遥かにマシです。

 

 

GHQは日本の国民にとって、良い事もやっています。

 

 

例えば、奴隷憲法である大日本帝国憲法の呪縛から解き放ち、日本国民を「人間の地位」に戻し、「人権」という概念を植え付けました。これがあったから私たちは、これまで自由や権利が守られ、自分の力を発揮することができ、戦後の復興を成し遂げたのです。

 

 

あれを言っちゃいけません、これをやったらダメです。こうしなさい、ああしなさい...

 

 

そうやって、本人の自主性を押さえつけて、みんなと同じ考え、みんなと同じ行動をさせ、自分に嘘をつかせると、委縮して能力が潰れるので、一人一人の力が発揮できず、日本全体で見た時に、国力が落ちるのです。

 

 

その流れを変えたのがGHQなので、国民にとってはプラスになっています。ただし、GHQのやった愚民政策はダメです。

 

 

そして、日本人が中国で行った事を「悪くない」「共栄」と言うなら、今、中国人が日本の土地を買うのも(しかも合法的)「悪くない」し、「共栄」と言われます。

 

 

昔の日本人がやった事と比較したら、今中国人がやっていることはまだマシです。

 

 

例えば、土地を買われるにしても、売っているのは日本人です。

 

 

聞いた話ですが、土地を持っていても跡継ぎがいない等で、処分に困っている人がいます。なかなか買い手がつかない時に、中国人が現れて、日本人が払えないような金額で買ってくれると、ありがたいそうです。

 

 

逆に「外国人が土地を買うのは侵略だ」と言っている日本人は買ってくれない...。

 

 

土地を売りたい人からみたら、外国人であってもありがたいし、買った方からみれば「買い手がつかなくて困っていたところを助けてあげた」という構図になるわけです。

 

 

困ってたからアジアを解放してやった。インフラを整えてやった...だから問題ないと考える人は、

 

困ってたから土地を買ってやったんだ...という言い方を外国人からされたら、問題だと思わなくなるのですか?

 

 

相手に「してやった」を言わせない為にも、普段から、自分達の傲慢な言い方をやめるべきなのです。

 

 

もう一つ大事な事を言っておきます。

 

 

日本軍がやった略奪、強姦、虐殺を「悪くない」と定義したら、逆にされたら文句を言えなくなります。「お前たちがこれは悪くないって言ったよね」と言われるでしょう。

 

 

同じ事をされる可能性がある...という視点を持っていれば、これまで相手に向けた態度や言動がいかに危険だったか分かると思います。

 

 

 

相手の立場に立って考える事は大事です。

 

 

ダメなものは誰がやってもダメだとハッキリ言う事...それは相手の為でもあるし、自分の為でもあるのです。

 

 

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日本軍のやった行為を、「侵略」だと言うと、

 

 

「日本は侵略したのではない、悪い事はしていない」と言う人が、たまにいます。

 

 

そんな方に証拠をつきつけると、今度は「アジア解放説」を主張されます。

 

 

「アジア解放」説を強調したい人の動機

 

 

証拠があるから揉み消すのは難しい...と悟るからなのか、「それなら、やった行いの解釈を変えよう」となるのでしょう。

 

 

「犠牲はあったかもしれない。でもそれは相手の為なんだ」...というズラしのテクニックが使われます。

 

 

これは、「ワクチンでこんなに死んでるじゃないか。どこからどう見ても毒だろ、認めろよ」と批判した時に、

 

 

「ワワクチンは薬だから稀に死ぬことはあるかもしれないけど、みんなの命を救うために必要なんだ」と言い張る推しワクと、頭の構造が同じです。

 

 

ズラしの会話は他にもあります。比較してみましょうか。

 

 

「打たなかったら、コロナの被害はもっと酷かった。打ったからこの程度だった」

 

 

「日本が行かなかったら、欧米の植民地支配で現地はもっと悲惨な目にあっていたんだ。日本が行ったから良くなった。」

 

 

ね。そっくりでしょう。詐欺師みたいです。

 

 

他にも、やった事を胡麻化す考え方は多数あります。でも、どんなに解釈を変えて、言い訳をしても、それでも「やった事そのもの」は消えません。

 

 

●大東亜戦争の賛美(太平洋戦争とは言わない)

 

 

●侵略戦争の否認、解放説を唱える

 

 

●東京裁判の否定

 

 

●大日本帝国時代の国家体制や、戦争を批判的に見る歴史認識に対して「自虐史観」とか「東京裁判史観」というレッテルを貼って叩く

 

 

これらは大日本帝国を擁護する考え方です。

 

 

こういった発想の源流を辿っていくと、たいてい「日本会議」に行き着きます。

 

 

反ワク界隈でも、見事にこの思想に染まっている人がいます。

 

 

一番の問題は、「非人道的な行為」を批判していた反ワク仲間が、「日本が戦前・戦中に行った非人道的な行為」に対しては甘い事。

 

 

今の政府や報道は「間違っている」と批判しているのに、今よりずっと酷かった、明治憲法下の政府や報道は「正しかった」と認識してしまう判断基準にも驚かされます。

 

 

そして、その問題を指摘する人に対して、失礼極まりないレッテルを貼って、言論を封じようとする人もいます。

 

 

自分達が反ワク活動において、世間から「陰謀論」「デマ」と言われたら怒るのに、それと同じような事をしているわけです。

 

 

「戦争」は「ワクチン」よりも、被害が分かりやすいです。従って、あれが「悪意がある加害だった事」は分かりやすいので、誤魔化されたりズラされていた解釈を、一つ一つ正していきます。

 

 

「大東亜戦争」の建前と本音

 

 

「太平洋戦争」は、「大東亜戦争」とも呼ばれます。後者はなじみが薄いので、呼び名の経緯についてご紹介します。

 

 

「大東亜戦争」という呼び名がいつ誕生したのかというと、日米開戦とほぼ同じ時期です。

 

 

『日本会議 戦前回帰への情念 著者/山崎雅弘』

 

 

真珠湾攻撃(日米開戦)から二日後の一九四一年一二月一〇日、日本の陸海軍と政府の代表者から成る大本営政府連絡会議は、自分たちが始めた戦争の呼び名について、「支那事変を含め大東亜戦争と呼ぶ」と宣言しました(一二日の閣議で正式に決定)

 

 

(中略)

 

 

この宣言から一ヵ月後の一九四二年一月二一日、当時の東條英機首相は、日本が始めた戦争について、「一〇〇年間にわたって米英の搾取に苦しんできたアジア諸国を解放し、大東亜永遠の平和と、帝国(日本)を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立する」ための義戦(大義に基づく戦い)であると説明しました。

 

 

(164~165p)

 

 

 

「太平洋戦争」ではなく、「大東亜戦争」と呼ぶ人達は、大日本帝国の政府寄りの考えをしています。東條が唱えた「戦争の大義名分」を支持し、あの戦争は「侵略」ではなく「アジア解放」の正しい戦争だったという歴史認識を持っています。

 

 

当然ですが、立場の違いで「侵略」にもなるし、「アジア解放」にもなります。

 

 

どちらの意見も聞く必要がありますが、大事なのは動機結果です。

 

 

アジアの人を幸福にする気があったのかどうか、本当に開放されたのかどうか、それでアジアの人が幸福になったのかどうか...そこを見る事が重要です。

 

 

過去の記事でも説明した通り、日本は自国の人間を粗末に扱う国です。扱いは酷いのに、それを呼び方だけは「英霊」「軍神」と言って褒めたたえるようなところがあるので、言葉に騙されてはいけません。

 

 

建前ではなく本音も見ましょう。

 

 

一九四二年一月二一日、東條英機首相が、日本が始めた戦争を、「アジア諸国の解放」だとか、「大東亜永遠の平和」だとか、「帝国(日本)を核心とする共存共栄」だとか言ったのが建前なら、本音はこちらです。

 

 

『日本会議 戦前回帰への情念 著者/山崎雅弘』

 

また、日本の東南アジアへの侵攻が「資源獲得のための侵略」であった事実は、開戦から三ヶ月後の一九四二年二月一三日に政府の閣議決定で設置された「大東亜建設審議会」の議事録など、当時の日本政府の記録によっても裏付けられています。

 

 

東條首相が総裁を務めたこの会議は、閣僚やその経験者、財界有力者らが「大東亜共栄圏(実質的に日本が支配する東南アジアの一大経済ブロック)」建設の具体的な方策を討議する、いわば有識者会議でしたが、そこで参加者の口から語られたのは、東條が示した「大義名分」とはかけ離れた、生々しい「本音」でした。

 

 

「極端に言いますれば、向こう(占領したアジア植民地)から取ってきた資源は、対価を払わなくてもよろしい。タダで取る。いわゆる出世証明のような方法で、(住民への)支払いは一〇〇年先でもよろしいというふうに私は思うのであります」

 

 

「日本を中心として(占領したアジア植民地から)搾取していかねば続かぬということは、ごもっともな意見ではありますが、そこは公明正大にカムフラージュすべきかと」

 

 

(NHK取材班編集著『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 戦中編』NHK出版、三七~三八ページ)

 

 

(168~169p)

 

 

本音は侵略なので、アジアの為にどんな事したのか紹介します。

 

 

日本にとって都合のいい思想を押し付ける

 

 

太平洋戦争と国民総動員という本で、太平洋戦争に即して「アジア解放」論を検証されていたので紹介します。

 

 

『太平洋戦争と国民総動員 / 著者:小野賢一』

 

「大東亜共栄圏」の構想と具現化

 

 

領土拡大の野望

 

 

戦中、いろいろな場合に「アジア解放」論が登場したが、たいていは「大東亜共栄圏」とむすびついていた。

 

 

「大東亜共栄圏」の語を使って、日本の新たなアジア侵略のくわだてを明瞭にしたのは、松岡洋右である。松岡は四〇年八月、第二次近衛内閣の外相として、この内閣の外交方針を内外にあきらかにした。

 

 

談話で松岡は、天皇主義を世界におしひろげるのが日本の使命だと主張し、日本のかいらい国家・勢力である「満州国」、中国の汪精衛(兆銘)と日本とを結合し、そのうえで「日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立を図る」、これこそが「世界平和に貢献する道程」だ、その実現を妨害する一切の障害を排除するとのべた。

 

 

談話についての報道によれば、松岡は「大東亜共栄圏」の範囲を、朝鮮、中国はもとより、現在のインドシナ、インドネシアまではいるとした(「朝日」四〇年八月二日付夕刊)。

 

 

松岡がそこまでうそぶくのは。三一年いらいの侵略拡大と国策の積み重ねがあったし、第二次近衛内閣の「基本国策要領」(四〇年七月)で「大東亜の新秩序を建設」するとしていたという背景がある。

 

 

こうして「大東亜共栄圏」は、「大東亜の新秩序」を言い換えたもの、東アジア・西太平洋を日本の版図にくみこむ構想で、イギリス、オランダ、フランス、そしてアメリカとの軍事衝突を不可避とするものだった。

 

 

松岡談話の一ヵ月後に日本は、インドシナ北部に侵入し、日独伊同盟条約を締結(四〇年九月)し、「大東亜共栄圏」の実現にむかって行動を開始した。

 

 

この九月、大本営政府連絡会議の文書「日独伊枢軸強化に関する件」の別紙(「秘密とす」)には、日本の「生存圏」の範囲をつぎのように明記していた。

 

 

「生存圏として考慮すへき範囲は日満支を根幹とし旧独領委任統治諸島、仏領印度及同太平洋島嶼、泰国、英領馬来、英領ボルネオ、蘭領東印度、ビルマ、濠州、新西蘭並に印度等」(外務省編纂『日本外交年表並主要文書』下)。

 

 

オーストラリア、ニュージーランド、インドまでふくめていたのである。

 

 

太平洋戦争をはじめてから、日本政府はこの戦争を単に「自存自衛」のためでなく、「大東亜解放」のためだと性格づけ、アジア諸国もそれを「了解すべき」だと説教するようになった(四一年十二月、東郷茂徳外相、衆議院)。

 

 

日本は明治いらい、台湾、朝鮮を植民地とし、そこで残酷な支配をおこない独立運動を弾圧してきたが、それらには口をぬぐい、新たな攻撃地点の多くが欧米の植民地であるため解放をとなえたものである。

 

 

あけて四二年一月、東条英機首相は衆議院で、この戦争目的をもう少しあからさまに、アジアの戦略拠点と重要資源を獲得するもの、米英両国を屈服させるものだとのべた。

 

 

「大東亜戦争指導の要諦は、大東亜に於ける戦略拠点を確保致しますると共に、重要資源地域を我が管制下に収め、以て我が戦力を拡充しつつ、独伊両国と密に協力し、互に呼応して益々積極的作戦を展開し、米英両国を屈服せしむるまで戦ひ抜くことであります」(議事速記録)。

 

 

さらにこの日、東郷外相も、衆議院で「大東亜共栄圏」内の必要地域を「帝国に於て把握すべきは当然であります」と演説した。

 

 

そうした言明は、戦争のなかで具体化されていった。

 

 

先の東条演説は、「大東亜防衛の為め絶対必要なる地域は、帝国自ら之を把握処置し」とのべ、日本軍国主義の解放なるものの真の意味を鮮明にした。そして香港、マレー半島を直接あげ、これを「大東亜防衛の拠点」とする、フィリピンが「大東亜共栄圏建設の一翼として協力」するなら「独立の栄誉」をあたえるなどとのべた(議事速記録)。

 

 

すでに四一年十二月に米領ウェーキ島を占領した日本は、「大日本軍司令部」名で「ウェーキ島は全部大日本帝国の国有たることを宣言す」としていたが、領土についての本格的な決定は四三年五月の御前会議の「大東亜政略指導大綱」である。

 

 

この大綱のなかに、マレー、スマトラ、ボルネオ、セレベスを「帝国領土と決定し重要資源の供給源として極力之が開発並に民心の把握に努む」、またニューギニア等のその他の占領地はこれに準じ「追て定む」とある(『日本外交年表並主要文書』下)。この会議には政府と軍の最高メンバーが出席し、会議後に署名と花押を印したのである。

 

 

そのとき、東条はこういう理由づけをしている。「マライ、スマトラ、ジヤワ、ボルネオ、セレベスは民度低くして独立の能力乏しく且大東亜防衛の為帝国に於て確保するを必要とする要域であります」(『杉山メモ』下)。

 

 

会議にでていた天皇はこの日、極秘のこの決定をただちに裁可した。内大臣の木戸も、それが天皇の決定であることがわかるように、「二時より御前会議あり、大東亜政略指導大綱を御決定あり」と記している(『木戸幸一日記』下)。

 

 

領土とすることが解放でないことは、子どもでもわかることである。

(219~222p)

 

 

 

何様のつもりなんでしょうか。選民思想丸出しで、ジャイアンが唱える理屈と変わりません。

 

 

松岡洋右(ようすけ)は、「満州国」に存在した南満洲鉄道(満鉄)の総裁を務めた人物でもあります。

 

 

満鉄は、鉄道経営にどどまらず、経済や行政も掌握し、最盛期には80余りの関連企業を持っていた巨大組織だったのです。

 

 

松岡洋右が満鉄総裁に就任した時、優秀な人材を集めて「大調査部」を発足しました。この組織は実態がよく分かっていないのですが、簡単に言うと、諜報活動のプロが集まったスパイ組織のような役割をしていたようです。

 

 

戦後、満鉄が解体されたら、多くの人が「電通」に再就職しました。

 

 

戦前と戦後は一見変わったように見えますが、水面下は繋がっていたりします。ちなみに松岡洋右は岸信介と親戚関係だそうです(系図はこちらが参考になります)。

 

 

日本軍による満州国の中核であった満鉄総裁を務めた松岡が、天皇主義を世界に押し広げるのが日本の使命だと主張するのですから、日本が何を考えてアジアに進出していたのかが分かります。

 

 

これって、思想の押し付けですよね。今の日本国憲法下だったら考えられない行為です。

 

 

 

 

略奪

 

 

「アジア解放」論を太平洋戦争に即して見てみると、以下の展開もジャイアニズムが炸裂しています。「解放」という解釈は、どう頑張っても不可能です。

 

 

『太平洋戦争と国民総動員 / 著者:小野賢一』

 

石油、外国企業の獲得

 

 

四一年十一月二十日、連絡会議は「南方占領地行政実施要領」を決定している。開戦より一八日まえのことである。

 

 

「占領地に対しては差し当たり軍政を実施し治安の恢復、重要国防資源の急速獲得及作戦軍の自活確保に資す。占領地域の最終的帰属並に将来に対する処理に関しては別に之を定むるものとする」。これは、南方を植民地・資源供給地とみて、そこに軍事支配を確立する方策である。

 

 

そこで、日本の南進のカギとされた石油についてである。戦時中、「石油の一滴は血の一滴」という宣伝がなされたものだが、日本支配層は開戦まえから石油獲得に執念を燃やしていた。

 

 

四一年夏~秋には、民間の石油会社社員を徴用し特別の部隊を編成して待機させており、開戦と同時に目的地に急行させた(ボルネオのセリア、スマトラのパレンバン)。

 

 

 

そして、破壊・炎上による被害を急速に修復し、多量の石油を獲得した。四四年八月の最高戦争指導会議の報告では、東南アジアからの「石油還送」は四二~四四年度に五五四万キロリットルである(参謀本部所蔵『敗戦の記録』)。

 

 

戦後明らかにされた一つの数字では、原油産額(四二~四五年)の合計は一九五〇万キロリットル、うち日本の取得量が四八五・九万キロリットルで、この差が「現地消失又は減失」となっている(『史料集・南方の軍政』)。

 

 

こうして日本への「還送量」は、三年間で五〇〇万キロリットル前後となる。今日の石油輸入量からみればわずかなものだが、当時としては相当の量を意味した。

 

 

これらの石油の油井と施設はもともと欧米資本のものだったが、占領後はすべて日本軍の管理下にいれた。「敵産」と称してうばいとったのである。

 

 

さらに、四二年八月の南方軍政総監の指示というものがある。

 

 

軍政の目的は、南方諸民族に「適切なる指導を与へ南方資源を確保して帝国の戦力を急速に充実する」こと、「帝国臣民に発展の機会を与へ」「大和民族永遠の発展を図るを基本理念とす」とあからさまである。

 

 

そして「敵産」については、「従来の国際法規に拘泥することなく敵国の国有及公有たりしものは帝国の国有に又私有たりしものと雖も所要に応し帝国に帰属せしむる如く処置し之を適切に運営す」(第八項Ⅰ)と露骨きわまりない。

 

 

それは単に出先の問題ではなく、連絡会議の方針の具体化であった。連絡会議は開戦半年後の四二年六月に「敵産」の処理について議論しているが、そこで東条首相は「現に日本軍の手にて占領地に於て押収せる敵産は数百億〔円〕に上り・・・・・・」(『杉山メモ』下)と発言している。

それらの処理が国際法、とくに日本も批准していたハーグ陸戦法規に違反することを承知のうえでやっているのである。

 

 

公式の発言や決定では表現は多少ひかえめだが、個人的な文書にはつぎのようなのもある。

 

 

インドネシアについて、「没収し得る敵性大規模企業が極めて多い」「全鉱業資源の開発、精錬等、処分は全くわれわれの自由であり、農業部門においても......全産額を支配することが出来る」「鉱業に於ては総べてが敵性利権であつて、我の没収し得るところ」(川西正鑑『大東亜産業立地計画論』)。

 

 

川西はこの本を、東京工業大学教授・経済学博士という肩書きで書いている。

 

 

 

乱暴なのは政府・軍部だけではなかった。開戦とともに南方には多数の日本企業がおしかけ、「敵産」に到達した。三菱電機はジャカルタのマシンファブリック工場に乗り込んだし、東芝はスラバヤのフィリップス工場、日立製作所もスラバヤのフラート鉄工場・ボルミス板金工場、住友電気もバンドンのフィリップス工場、といった具合である(『史料集・南方の軍政』)。

 

 

原料・資源についても同様である。日本の軍と企業は、欧米資本が駆逐されたのを好機に現地でとってかわったのである。

(222~224p)

 

 

すいません。

 

もう、侵略...でよくないですか?

 

 

Wikipedia

 

侵略とは、直接武力をもって他国の領域に侵入したり、攻撃すること、一国が他国に対する要求を貫徹するために武力行使によって事態を変更せしめること、他国に攻め入って土地や財物を奪い取ること、他国の主権を侵害すること、などを意味する。

 

 

まだ、「解放」だと言い張りますか?

 

 

 

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これまでの記事で、戦時中に日本人が日本人に対して行ってきた事、日本人が外国人に対して行ってきた事を紹介しました。

 

 

 

④証言を元に、大日本帝国の軍隊のイジメがいかに酷かったか考える。

 

 

⑤日本軍が他国の人に対して行っていたこと。

 

 

 

かなり酷い事をやってきたのですが、「日本人は悪くない」と言う人がいるので問題視しています。

 

 

ワクチンで亡くなった人が大勢いるのに、「因果関係が認められない」とか、「死んだ人はいない」...みたいな事を言い張る人と同じくらい酷いと思っています。

 

 

 

 

日本人は人権意識が低いです。自分に対しても、同胞に対しても。

 

 

これに加えて「日本人は特別だ」という選民思想が強かったら、下に見た人の人権を平気で踏みにじります。

 

 

戦前・戦中は、外国人を見下していた記録があちこちに残っており、その差別意識は、今では考えられないくらい酷いです。

 

 

捕虜に対する昔の日本人の反応

 

「日本人は悪くない」...と思いたくても、当時の日本人がやった事を、大喜びしている様子を、新聞が伝えています。

 

 

捕虜に対してどう思っているか、本音が分かる記事がコレ。

 

 

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士の陣中日記 / 小野賢二・藤原彰・本多勝一 編 大月書店』より

 

 

 

 

 

「鏖殺」とはみなごろしだそうです。新聞に書いて良い言葉ではありませんね。

 

 

老若男女一様に...と書かれているので、日本全体がこの雰囲気だったのでしょう。恐ろしい...。

 

それを普通に書いているところも凄いです。それが許される社会、何とも思わない社会

だったのでしょう。当時の日本は。

 

 

 

 

 

 

 

これを読むと、イスラエルのガザ地区の人々に対する非人道的な行為が思い出されます。

 

 

選民思想が強い人達にとって、下に見た相手の命など、どうでもいいのです。

 

 

 

揉み消し

 

 

「なかった事」にされた悪事は、外国人に行った事だけではありません。

 

 

同胞の中で起きた問題についても、「なかった事」にしていたようです。

 

 

『ヒロポンと特攻 太平洋戦争の日本軍 / 著者:相可文代』

 

私の叔父(父の一番下の弟)は初年兵のときに、部隊内で下着を盗まれた。

 

軍隊では持ち物検査があり、きちんとそろっていないと厳しく叱責される。そのため、叔父は盗まれたことを正直に報告した。

 

すると、上官は「天皇陛下の軍隊に泥棒はおらん!」と言って、叔父を嘘つきと決めつけて殴った。

 

私はこの話を母から聞いたのだが、母に言わせると「軍隊では物を盗まれたら、別の人の物を盗ってつじつまを合わせるか、家族に手紙を書いて届けてもらうしかない。軍隊とはそういうところ」なのだそうだ。

 

軍隊ではしばしば、こうした盗難事件が起こったそうだ。基本的な物品は支給されるが、傷んだりしても、すぐ新しいものが支給されるわけではない。そのため、家から送ってもらったりするわけだが、送ってもらえる家ばかりではないから、新品を持って入隊する初年兵の持ち物は、しばしば狙われたらしい。

 

しかし、そんなことが起これば、班長である上官の監督責任が問われる。それゆえ、盗難事件などなかったことにされ、本人の責任にされたわけである。

 

さらに、母は、「泥棒はおらんと言われたときに、自分の勘違いでした、自分が紛失しましたと言えばいいのに、不服そうな顔をするからよけいに殴られる。軍隊では要領よく立ち回るものが勝ちなのだ」「軍隊では家から送ってきた物があるときは、必ず上官にも渡してふだんからかわいがってもらえるようにしておかなければならない」とも言った。

 

だが、私の叔父は要領よく立ち回ることができず、上官から目をつけられた。しばしばリンチを受け、やがて精神を病んで除隊させられた。私の軍隊嫌いは、この話を聴いたときから始まった。

 

(331p)

 

 

 

弱い者には偉そうにし、強い者には媚びる...スネ夫みたいな性格の人が軍隊では出世するとのこと...。スネ夫の集団で戦争をしても勝てるわけありません。

 

 

私は日本人を凄いと思います。現代の日本人を。

 

 

...何故なら、先人がここまで人間のクズだったにもかかわらず、今の人達はモラルが高いからです。全部が良いとは言えませんが、マシになりました。

 

 

戦後80年...すごい成長だと思います。

 

 

一方で、盗難、事件のもみ消し、リンチ...このような事が出来る人間性を「美しい」とか「精神性が高い」等と感じる人もいるみたいなのですが、そんな社会にして国民が幸せになると思っているのでしょうか。

 

 

 

 

盗難があっても、泥棒はいなかった事になったり...

 

侵略しても、悪い事はしてなかった事になったり...

 

このような綺麗事で成り立っている社会は健全とは言えません。

 

 

事実を突きつけられても「それは違う」と言い張るクセは、いい加減直した方がいいと思います。

 

 

昔の人がこの性質を問題視せず、改善しなかったせいで、現代もその伝統が受け継がれてしまいました。

 

 

だから、現実に被害に苦しんでいる人がいるのに、推進派は「ワクチンの被害はない」と厚かましい事を言うのです。

 

 

七三一部隊の当事者の証言

 

 

都合の悪い事を、「なかった事」にしたい勢力は、あの手この手を使って、証言しようとする人達の邪魔をします。

 

 

以下は731部隊の証言者の話です。

 

 

私たちが中国でしたこと 中国帰還者連絡会の人びと 著者 / 星徹(2006年7月25日 初版発行)』

 

第二章 忘れえぬ七三一部隊の狂気

 

篠塚(旧姓・田村)良雄(千葉県在住・七七歳)

 

 

この一カ月ほど前の一九九八年六月二五日、自らの罪行について米国とカナダで講演をするため、篠塚は飛行機でシカゴ(米国)へと向かった。事前に、両国政府機関から「七三一部隊の戦犯なので、入国を許さない」という情報を受け取ってはいた。それでも、「話せば分かってもらえる」という思いで出発したのだ。

 

 

シカゴのオヘア国際空港の入国審査で、コンピュータが反応した。「ワシントン(米国政府)の命令だから、入国は認められない。篠塚には、ただちに日本へ帰ってもらう」。審査官にそう言われ、篠塚は成田へと送還された。

 

 

「米国とカナダで、わしの罪行について証言をしたかったのですが、残念でなりません。証言するから入国させない、としか思えない。口をつぐんでいる人は入国できるのに」。悔しさを押し殺してそう私に言うと、篠塚は目をつぶったまましばらく動かなかった。

 

 

(中略)

 

 

中国の寛大政策により、篠塚は五六年七月に起訴免除となり、八月に帰国した。千葉県の故郷へ戻って数日後、同郷の七三一部隊の元上官たちが「歓迎会」を開いてくれた。その場で、別の部署の元上官から、「石井(四郎)部隊長閣下のところへ、帰還の挨拶に一緒に行こう」と誘われた。篠塚は行く筋合いではないと思い、「わしはもう石井の部下じゃない。行くのは嫌だ」と断った。

 

その場は険悪な雰囲気になり、それ以降こういった会合に誘われることはなくなったという。

 

あの時、石井四郎に会って就職の世話にでもなっていたら、今頃は口をつくんでいたかもしれません。行かなくてよかった」。そう当時をふり返る。その後、地方公務員となり、定年まで働いた。

 

定年後の八四年ごろから、七三一部隊での体験を講演するようになった。「わしが中国でやったことを、闇から闇に葬るわけにはいかない、と思ったのです。真剣な眼差しで、そう篠塚は私に訴えた。

 

 

講演会での証言は、九三年から七三一部隊展が全国各地で開催されるのと並行して、頻繁に行われた。嫌がらせも度々あった。渋谷(東京都)での講演後、ロビーでチンピラ風の若い男に「でたらめ言うな!刺すぞ!」と脅されたこともある。

 

千葉で講演をした時は、七三一部隊の部隊長のことを「石井四郎」と言うと、会場内の中年の男から「なんで石井閣下のことを、呼び捨てにするんだ!」と怒鳴りつけられたこともある。そんなことがあっても、証言を続けている。

 

 

「わしたちは、人としてやるべきでない事をしてしまったのです。被害者や遺族の立場になれば、どう思っただろうかといつも思います。せめてもの償いです」。

 

 

そう篠塚は言うのだが、講演で目にする彼はいつも苦しそうだ。それでも、悲しみやつらさの感情を押し殺し、必死に平静を装おうとする。「講演をして当時のことを思い出すと、苦しくて夜はなかなか眠れません。思い出すのは、とてもつらいのです」。そう篠塚は私に語ったことがある。

 

 

生涯を通じて責任を取る

 

 

米国とカナダへの入国拒否について、篠塚は力を込めて言う。

 

 

「確かにわしのやったことは、非人道的な行為でした。申し訳ないと思っています。しかし、米国は石井四郎(元部隊長)ら幹部と取り引きをして、“免罪”しているじゃないですか。彼らが入国できたのに、わしみたいな下っ端を入国させないのは、納得できない」

 

確かに、篠塚は非人道的行為をした。しかし、被害国である中国の裁判では不起訴処分となっており、「元戦犯」ではない。米国は、七三一部隊などの人体実験やその他の“研究”資料を手に入れることを条件に、これら戦争犯罪を追及しない、という取り引きをした。その一方で、篠塚のように自らの罪を認めて謝罪し、積極的に事実を証言している元下級軍属を入国させないのである。

 

 

(160~167p)

 

 

 

実際に関わった人が証言しようとすると、周囲から圧力がかかるみたいです。

 

 

それだけではありません。日本人はお上を悪く言えない性質があります。

 

 

上の立場の者や、政府の悪行を指摘することから逃げ回るケースも目立ちます。

 

 

 

私たちが中国でしたこと 中国帰還者連絡会の人びと 著者 / 星徹(2006年7月25日 初版発行)』

 

「潞安陸軍病院だけでも三〇人以上、中国全土だと一〇〇〇人以上が生体解剖に直接かかわったはずなのに、ぼく以外ほとんど誰もしゃべらないんですよ」。

 

 

湯浅は、力を込めて会場の皆に訴える。「みんな『忘れて』るんです。日本人は戦争で犯した罪の意識がとても弱いのです。あるのは恥だけ。知らなければいいと思ってるんです」。

 

 

個人責任に収斂される危機感

 

このように、湯浅は自らの罪行を深く認識し、帰国後も認罪活動を続けてきた。しかし最近、自分と同じように認罪活動を続ける中国帰還者連絡会(中帰連)の仲間が「自分が悪かった」「当時は本当の鬼になった」などとばかり言い、当時の社会体制についてあまり指摘しないことに、ある種の危機感を持つようになってきた。

 

 

当時は日本こそが理想的な国だと思っていて、中国人や朝鮮人を見下していた。そういう精神構造にさせられていたんです。『ヘッドギア』を付けられて洗脳されていたことに、気づかなかった。それなのに、自発的に考えて行動している、と思い込んでいたんです」。

 

 

湯浅はこう私に向かって訴える。しかし、中帰連の仲間にこのように言うと、「僕らがそんなこと言っちゃいけないんだよ。本当にひどいことをしたんだから」とたしなめられることもあるという。それでも。湯浅は自らの行為を認罪しつつも、あえてその大本の国家責任や構造的問題を指摘することを忘れない。

 

(184p)

 

 

このように、どんな理不尽な目にあっても、お上には絶対に逆らわないという精神構造は問題だと思っています。

 

 

戦後は日本国憲法になって、言論の自由が保障されているのに、奴隷服従根性のままなのが勿体ないです。

 

 

 

731部隊がやった事については、読むだけでもきついので、詳しい内容はあえて文字お越ししませんでした。その代わりに動画を貼っておきます。

 

 

 

この動画は、今から30年前、戦後50年に作成されたもののようです。

 

 

 

 

 

 

 

苦しい言い訳

 

 

家族に暴力を振るうような人は、他人に対しても酷いことができます。また、こういう人に限って、外面は良かったりします。

 

 

この理屈は国に置き換える事ができます。

 

 

自分の国に酷い事ができる体制は、他国に対しても酷いことができます。また、こういう国に限って、外面は良かったりします。

 

 

大日本帝国がまさにそうでした。

 

 

日本国民を人間として扱わず、他国に対しても酷い事をしていました。しかし、外面は気にするので「悪い事はしていない」と言い張っています。

 

 

しかし、日本側がどう言い訳しても、隠せないぐらい被害が酷いので、誤魔化すことは難しいです。

 

 

マイケル・ジャクソンが「私は整形してない」と言うのと同じくらい無理があります。

 

 

よく、GHQのせいで、「日本人が日本に誇りを持てなくなった」と言う人がいるのですが、

 

 

証拠が大量にあるのに、「やってない」と言い張る往生際の悪さ、「いつまで謝ればいいんだ」と開き直る態度は、ダサいキャラクターの特徴であり、「恥」以外のなにものでもありません。

 

 

 

嘘に嘘を重ねるような態度に、誇りを持てる方がどうかしています。

 

 

 

証拠や証言を客観的に見れば、相手国から見れば、やっている事そのものは加害であり侵略です。

 

 

 

満蒙開拓平和記念館(長野県):本人が語る76年前の「地獄の逃避行」 国策による苦難の歴史伝える

 

「満洲国の『五族協和』なんてとんでもない話で、日本人は一等国民、朝鮮人は二等、中国人は三等と、もうあからさまの差別。だから暴動が起きるのは何の不思議でもない」

 

 

日本人が綺麗なキャッチコピーを宣伝する時は要注意です。

 

 

続きは以下の⑦になります。

 

 

日本国憲法の大切さについて考える

 

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これまでの記事で、大日本帝国時代は、日本人が同胞に対して非人道的な事をしていたという話をしてきました。

 

 

④証言を元に、大日本帝国の軍隊のイジメがいかに酷かったか考える。

 

 

 

身内にも容赦ないので、外国人にはもっと酷いです。

 

 

 

本記事では、中国で行った事を中心に紹介します。

 

 

 

加害者としての日本

 

 

 

 

 

概要欄

 

戦争から75年がたち元兵士の大半が亡くなるなか、とても貴重な証言。右派左派ともに耳を傾けるべき内容。初年兵がやらされる刺突訓練(農民を殺害)、日本人軍医が戦時中に記した兵士による輪姦の状況など。戦争の真実がここに。※沖縄戦を体験した兵士は当然ながら中帰連メンバーではありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中国の後、沖縄でも戦いました。

 

 

 

 

 

この近藤一氏は、中国戦と沖縄戦の両方の証言者として活動をされていました。朝日新聞の有料記事ですが途中まで読めます。

 

 

「仲間の恥をさらすな」元陸軍伍長が語り続けた加害体験

 

 

加害体験が少ない原因の一つは、同胞からの圧力です。ワクチン薬害と似ていますね。

 

 

戦争経験者はどんどん少なくなっており、生の声を直接聞くのは難しくなってきました。

 

 

彼らが生きている間に残した証言は探せば見つかるのですが、探す気が無ければ、目にすることはないでしょう。

 

 

 

 

加害者としての日本

 

 

『私たちが中国でしたこと 中国帰還者連絡会の人びと 著者 / 星徹(2006年7月25日 初版発行)』という本にも、日本軍が何をやったのかが具体的に分かる情報、そして、それを行った時の心理等、詳しく書かれていました。

 

 

『中国帰還者連絡会』は、大日本帝国によって洗脳された元軍人を、中国が収容所に入れて、思想教育を行った上で解放された人々...なので、信じられないという意見もあるみたいなのですが、だからといって、証言が全部嘘になる根拠にはなりません。

 

 

あの人が言ってるからダメだ...と言って、中身も確認せずに決めつけるのはよくないです。

 

 

本では、顔出し、所属する部隊、作戦を行った場所まで詳細に示されています。この本だけ特別、証言内容が酷いなら、信憑性を疑ってしまうかもしれませんが、「このグループに属さない兵隊」の証言とも被る行いなので、嘘とは考えにくいです。

 

 

そして、仮に思想教育であったとしても、「それを受けた証言者」が常識的な考えになっているので、少なくともこれを読む限りでは、悪い教育には見えません。

 

 

当時の日本軍は、カルト宗教が勝てないレベルの洗脳を行っていたので、戦後になっても「悪い事をした」と思ってない兵隊も多かったみたいです。

 

 

それを解除するには、逆洗脳もありだと思います。毒を以て毒を制すというやつです。

 

 

というわけで、この本から、印象に残った話を紹介します。具体的に何をやったのか、その時の考えなどに注目して下さい。

 

 

「当時は、中国人のことをチャンコロと言って、劣等民族だとバカにしていたんです。その『チャンコロ』が天皇を戴く日本民族に反抗して、けしからんと思っていました。だから、これは正義の戦争であり、天皇のため、国のため、親兄弟のための戦争である、という信念をもっていたんです。小さい頃から、そういう風に教育されてきたんです。俺は日本では善良な国民であり。愛国者だったんですよ!極悪人としてオギャーと生まれてきた訳じゃないんだ!」

 

 

金子安次(東京都在住・八一歳)は顔を真っ赤にして、腕を振り上げて私にそう訴える。

 

 

二〇〇〇年一二月、日本の非政府組織(NGO)が中心となり東京で開催された女性国際戦犯法廷で、金子は自らの性加害体験や従軍慰安婦についての証言をした。「法廷」の傍聴席では、日本軍により性暴力被害を受けた各国の多くの女性も聴き入った。

 

 

「当時は、チャンコロの女を強かんして何が悪いんだ、どうせ殺すんだからいいじゃないか、と考えて強かんをしていたんです」

 

 

「法廷」で金子はこのように語り、自らの加害体験を証言した。

 

 

(中略)

 

 

金子は尋常小学校に入り、軍人になることを夢みるようになった。教科書は神話で溢れ、大和民族がいかに優れているかが描かれ、天皇は神であると教え込まれた。

 

 

(中略)

 

 

“良き”日本軍人へ

 

 

四〇年一一月、金子ら初年兵は中国山東省済南の南に位置兖州に到着した。そして独立混成第一〇旅団第四四大隊第一中隊重機関銃班の所属となり、ここで三カ月の初年兵一期教育を受けた。

 

 

「ここにいて殴られなかったのは、入隊した日と予防接種を受けて熱が出た日の三日くらい。あとは毎日朝から晩まで、班付き上等兵や故年兵から殴られていました」。理由は何とでもつけられた。「動作が遅い!」「服装が悪い!」・・・・・・。特に、裏にびょうの付いた編上靴で顔を殴られると、口の中まで切れて飯も食えなくなった。「『日本刀の刃と同じで、兵隊は叩けば叩くほど強くなるんだ』という“論理”なんです。人間性も何もあったもんじゃありません」。そう金子は言う。

 

 

住民を機関銃で皆殺しに

 

 

初年兵教育の後にも討伐はつづき、大きな作戦にも参加するようになった。集落掃蕩の際には、「あいつは良くやっている。度胸がある」といってもらいたいがために、古年兵など上官の命令には忠実に従った。古年兵が集落掃蕩で捕らえた男に水責めの拷問を行い、最後にグツグツと沸騰した湯を無理やり口をこじ開けて一気に流し込み、殺害するのも手伝った。

 

 

下半身を裸にした女を数人がかりで押さえつけたこともある。古年兵はその女の膣に綿を詰め込み、そこに油を染みこませて火を放った。女性は絶叫してのたうちまわり、古年兵らはワハハハッ!と大笑いして楽しんだ。

 

 

(中略 以下別の話)

 

 

村からの反撃はやんだ。日本軍は四つの門のうち三つの出入り口を封鎖したので、残る一つの門からは、苦しそうにする住民が次々と外に出てきた。彼らの多くは女性・子供・老人で、中には青壮年の男も少数は交っていたという。上官から「逃げてきたら、みんな撃ち殺せ」を命じられていたので、金子ら重機関銃班はダダダッ、ダダダダッ・・・・・・と彼らに銃弾をあびせつづけた。金子には弾薬手としての役割があった。軽機関銃や小銃もそれに加わり、住民たちは次々と倒れ、門の前は死体の山となっていった。後に、そこには一三〇体ほどの死体があった、という報告を聞いた。

 

 

「当時は中隊長らから「女は子どもを産むから殺してしまえ。子どもは大きくなったら我々に反抗するから殺せ。老人はどっちみち先が短いからどうでもいい』などと指示されていた」と金子は語る。

(中略)

 

 

すぐに、家の中から女の泣き叫ぶ声と古年兵の怒鳴り散らす声が聞こえてきた。暫くすると、古年兵は女の髪をわしづかみにして、表に引きずり出してきた。女は二〇代後半くらいで、泣き叫んで必死に抵抗している。古年兵が「金子、一緒に来い!」と言うので、「どうするんですか?」と尋ねると、「この女を井戸にぶち込んでやるんだ!」と答えた。集落の中には、共同の井戸が必ずいくつかあった。古年兵は近くの井戸までこの女を連れていき、高さ一メートルほどの井戸の縁に女の背中を推しつけ、地面に引き倒した。
「この古年兵は、女に抵抗されて強かんできなかったので、頭にきて殺そうとしたんです」。そう金子は推測する。

 

 

古年兵に「お前、足を持て!」と命じられ、二人の女の体を持ち上げて、直径一メートルほどの井戸の入口から真っ逆さまに投げ込んだ。「ギャー!」という女の悲鳴と共に、数秒後にはドボーン!と水に落ちる音がした。

 

 

その後、そこで古年兵と一緒に煙草をふかしていると、先ほど女が抱いていた四~五歳の男の子が「マーマ、マーマッ!・・・・・・」と泣き叫んで、井戸のまわりをグルグル走りまわっているのに気がついた。そのうち、その子は家の中に走って戻り、小さな台を持ち出してきて、井戸の手前にそれを置いた。井戸の入口が高くて、届かなかったからだ。そして、その子は台の上にのぼり、井戸の縁をのり越えて「マーマッ!」と叫んで井戸の中へ飛び込んだ。

 

 

これを見ていた古年兵は「金子、これじゃ可哀想だから、手榴弾をぶち込んでやれ」と言った。金子は井戸の中に手榴弾を投げ込み、数秒後にバーン!と大きな爆発音が聞こえた。

 

 

「子どもが井戸の中に飛び込んだ時には、私も心が痛みました。・・・・・・その後、私自身が子を持ち孫を持つようになると、その子らを見るたびにこの時のことが頭に浮かぶんです」。そう金子はやっとの思いで私に語った。

 

 

(中略)

 

 

「私たちは、こういったことをしょっちゅうやっていたんです。作戦に出れば、一日おきとか、場合によっては毎日です。いつ死ぬか分からないから、やれるだけやっておこう、という気持ちでしたから。当時は『強かんをやるのは当たり前で、やらない奴はおかしい』といった風潮で、罪悪感はまったくありませんでした。そのため、自分で行った強かんや輪かんの具体的なことは、ほとんど覚えていないのです」

 

 

(111~121)

 

 

 

 

猟奇的な話が満載で、読んでいると正直気分が悪くなるのですが、こういった部分にも目を向けなければ戦争は語れません。

 

 

 

戦争は「正義の為」とか、「自国を守る為」等とカッコイイ事を言う人がいますが、実際は全然違います。

 

 

暴力が罪に問われなくなるので、人間の残虐性が限りなく発揮され、矛先は弱者に向かいます。紹介した話は、相手が女性や子どもでも容赦ない事がよく表れています。

 

 

証言者が多いので全部は紹介しきれませんが、この本には、命乞いをする無抵抗な老人でも、病人でも、容赦なく惨殺する話も載っていて、ショックが大きいです。

 

 

私は祖母や親せき、親しい高齢者から「日本人も酷い事やっとるんよ」と聞かされていましたが、ここまで酷いとは思いませんでした。

 

 

戦いでやむを得ず殺すにしても、苦しまない方法をとる...等すればいいのに、楽しみながら殺してるとしか思えないような方法が目立ちます。

 

 

現代の貧困や暴力を紹介するブラックアジアというブログに、暴力が弱者に向かう話がたくさん書かれています。

 

一部無料で読めます。

 

 

ブラックアジア

 

 

これを読んで、外国の人は酷いなと思っていましたが、日本人も同じです。戦争という環境だったにしろ、やることが酷すぎます。

 

 

その事について、金子氏は次のように語っています。

 

 

 

金子はいま、幼少の頃から受けた教育がその後の自分に大きな影響を与えた、と思っている。それ故、「なぜ我々がこういう『極悪人』になっていったのかを、教科書にでも書いたらいいと思う」と真剣に語る。

 

 

そしてまた、日本軍がかつて中国で行ったうす汚い行為を「無かったこと」にしようとする連中に対しては、「腹立たしさを感じる」と言い、顔を真っ赤にして怒る。「自分のような過ちを二度と繰り返させない」。そのために、金子は「こんなこと、妻や娘に聴かせられない」と言いつつも、自らの罪行を証言しつづけている。

 

(127p)

 

 

太字にしたところが重要です。

 

 

私も教科書か資料集にして、平和学習に取り入れるべきだと思います。今の教育は、被害者側の立場ばかりで偏りすぎています。

 

 

ただ酷い行いを伝えるだけでは、「ひどいね」「かわいそうだね」で終わります。広島の平和学習がそんな感じです。何故起きたのか、加害者の心理や状況を分析して、「再発しない為にはどうすればいいか」という発想がありません。

 

 

この本に限らず、加害者側の証言をたくさん見てきましたが、彼らが酷い事をした原因で目立つことは3つあると思いました。

 

 

一つは「洗脳」。これは誰でもわかりますね。

 

 

一つは「見栄」です。「仲間から「できない奴だ」と思われたくない」「名を上げたい」という本人から出た気持ちです。この気持ちがあると、嫌な事を我慢して成し遂げます。

 

 

一つは、「差別意識」です。相手を同じ人間だと思えば、相手の立場に立って考えることができます。しかし、相手を見下していれば、「こいつは下なんだから何をやってもいい」と酷い扱いを平気でするようになります。そのくせ上には媚びへつらいます。

 

 

洗脳されなくても、見栄や差別意識が暴走すると、人は酷い事をするのです。

 

 

これは昔の日本人だけの問題ではありません。

 

 

今の日本人、外国人、どんな人でも環境やシステムを変えることで、心は影響を受けます。

 

 

そして、自分達は偉いんだとか、相手は下等なんだとか...そういった選民思想が諸悪の根源です。

 

 

上下関係に拘らなければ、「エエカッコしよう!」と見栄を張る必要もありません。

 

 

無視される証言

 

ワクチン被害者遺族が声を上げるのはリスクがあります。辛い事を思い出すだけでなく、誹謗中傷にあう可能性もあります。

 

 

そんな中で、勇気をもって証言してくれる方がいます。

 

 

ありえない事に、そんな証言者を叩く人がいるのですが、まともな感覚の持ち主なら怒りを覚えます。

 

 

それと同じで、戦争体験の証言者も、冷酷な扱いを受けることがあります。

 

 

『未完の敗戦 / 著者:山崎雅弘』

 

 

例えば、日中戦争初期の一九三七年に中国で起きた「南京虐殺」について、「保守」の人々は次のような「根拠」を理由に、「そんなものはなかった」と強弁します。

 

 

●中国政府は「三〇万人」が犠牲者の総数だと言うが、当時の(平時の統計上の)南京市の人口はそれより少ない。

 

●日本軍が大量に殺した中国兵の捕虜は全員、暴動を起こそうとしていた者だから殺しても問題ない。

 

●日本軍が大量に殺した私服の中国人は全員、便衣兵(軍服を着ないで戦う戦闘員)だから殺しても問題ない。

 

●南京攻略戦に参加した何人かの日本兵に話を聞いたが、誰も虐殺を見ていない。

 

 

しかし彼らは、当時の日本軍の命令や従軍兵士の日記・手記に記されている、以下のような「虐殺を裏付ける事実」は一切見ようとしません。

 

 

密偵が、わが軍の占領地内にいることは確かだった。どこの部隊でも、怪しい土民[原住民]はすべて捕らえて処刑した。なかには無実の者もいたかもしれない。だが何しろ言葉はわからず服装は同じ—、戦場の常としてやむを得なかった点もある。

 

(樋貝義治『戦記 甲府連隊』サンケイ新聞社、p.236)

 

 

師団長は女、子供に至るまで殺してしまえと言っているということだった。我々は、片端から住民をつまみ出してきた。連隊長大野大佐は、住民を殺せと命令した。

 

(井口和起、木坂順一郎、下里正樹編『南京事件 京都師団関係資料集』青木書店、p.220)

 

 

午前十時から残敵掃討に出かける。(略)午後また出かける。若い奴を三百三十五名捕らえてくる。避難民の中から、敗残兵らしき奴を皆連れてくるのである。この[避難民の]中には家族もいるであろうに。これを連れ出すのに、ただただ泣くので困る。手にすがる、体にすがるで、まったく困った。(略)揚子江付近にこの敗残兵三百三十五名を連れて、他の兵が射殺に行った。(略)日本軍司令部[の統治下]で二度と腰の立てないようにするために、[中国の]若人は皆殺すのである。

 

(南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集Ⅰ』増補改訂版、偕行社、p.370)

 

 

最後の文献は、日本陸軍の士官学校卒業生らを中心とする親睦団体の偕行社が、南京攻略戦に参加した日本軍人からの聞き取り調査に基づき編纂したもので、南京虐殺の実行を裏付ける膨大な証言や証拠が示され、その信憑性はきわめて高いと言えます。

 

(249~251p)

 

 

無視したり、「無い」と言い張ったり...

 

 

こんな事をずっと続けていると、そちらの方が知名度が上がって本当であるかのようになってしまうので、要注意です。

 

 

インドネシアとワクチン

 

 

意外と知られていない話を見つけたので紹介します。こちらはインドネシアの話です。

 

 

web 中公新書『インドネシア大虐殺』/倉沢愛子インタビュー

 

 

倉沢:コロナ禍で感染症やワクチン開発などの問題に関心が集まっていますね。インドネシアの歴史の中にも、日本の軍に徴発されていた数百名のインドネシア人労務者が、感染症の予防接種を受けた直後に集団で破傷風を発症して苦しみながら命を落とした、という痛ましい事件がありました。

 

日本占領期、78年前のことです。当時、この事件はインドネシアの医師たちが仕組んだ謀略だと一方的に断定され、その主犯格のモホタル博士が処刑される結果となりました。

 

 

私はこの事件に注目して、30年ほど前にインドネシアと日本で調査をおこないました。日本軍の秘密文書も入手して読み込んだのですが、どうやら日本当局が破傷風のワクチン開発に躍起になっていて、その臨床実験のために労務者に集団的に摂取したところ、何らかの手違いが生じて病気を発症させてしまったようだと推定しています。

 

 

そして、満州での人体事件などで悪名高い大日本帝国陸軍の防疫給水部が裏で関与していた可能性が高いこともわかりました。

 

 

※大日本帝国陸軍の防疫給水部とは「731」部隊の事です。

 

 

 

倉沢愛子氏のお話がこちらです。

 

 

 

 

 

 

言葉と行動が一致しない

 

 

「解放」「共栄」...等と、良い事いいながら、酷い事をしていました。証言や資料はたくさん見つかります。

 

 

現地の人は迷惑したと思いますし、「侵略」になるでしょう。こんなことをすれば。

 

 

 

今、日本の土地を合法的に買っている外国人の事を、日本人が「侵略」と呼ぶなら、その逆も「侵略」です。

 

 

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